2018年8月

萩尾望都SF原画展 群馬会場のレポートです

高崎市美術館2018年7月14日から始まった高崎市美術館での「萩尾望都SF原画展群馬会場」ですが、8月4日に浦沢直樹先生とのトークショーがあったので、その日の午前中会館時間からイベントまでの時間じっくり拝見しました。イベント後にももう一度寄りました。


会場:高崎市美術館(群馬県高崎市八島町110-27 アクセス方法
会期:2018年7月14日(土)~9月9日(日)
時間:10:00~18:00
入場料:一般600円 大高生300円
主催・問合せ:高崎市美術館

この順番に原画が並んでいます。
群馬会場展示物一覧

レッド星高崎市美術館は高崎駅から徒歩3分くらいのところにあります。3階建てで5つの展示スペースがあります。それぞれの広さがほどよくまとまった感じです。受付の左スペースではTシャツや本などの物販をしています。福岡会場から追加された「銀の三角」の手ぬぐいやTシャツもこちらで販売しています。受付の右側に展示リストがあります。リストの場所はちょっとわかりずらかったです。

1階の第一展示室の手前に撮影スポットがあり、レッド・星、阿修羅、キラの3人がいます。そこで撮影できます。その後、第一展示室に入るのですが、最初にこの図をご覧ください。
高崎市美術館図面
入口を入ったら、黄色い矢印のように対角線上に進み「開催にあたり」に行ってください。その左側に「あそび玉」が展示されており、ここがスタートになります。普通は入ってすぐ右側か左側からスタートするものですが、これはわかりにくい。何故こうなっているかというと、ぐるっと回って階段に上る導線にしたかったからだと思います。そうしないと、一度回ってまた戻って階段にあがることになるので、混雑しているときは混乱するでしょう。それがこの館の導線のルールなのかもしれません。

それでも、やはりいきなり入って左が「みんなでお茶を」だとそこからスタートのように見えてしまいます。人が少ないときは、案内してくれる館の方がいらっしゃるのでいいのですが、混んで来ると追いつきません。これから「萩尾望都SF原画展」群馬会場に行かれる方は「あそび玉」がスタートである、ということを覚えておいてください。

この第一展示室は階段のあたりが吹き抜けになっており、天井が高いので三枚のタペストリーが並んでいます。「ミューパントーの歌」「夢狩りの夕べ」「凶天使」です。

阿修羅第一展示室から第二展示室へは階段を上ります。2階も3階も廊下には複製原画やタペストリーが展示されています。各展示室には年代順に原画が並んでいます。壁は黒いですが、床はグレーです。新潟や福岡会場のような真っ黒のときからは宇宙空間っぽさは減りましたが、床と壁の区別がつくので、落ち着いて見ることができる感じはします。原画までの距離や照明は適切です。二次資料のケースも多すぎず少なすぎずという感じでした。ちょっと私の二次資料のチェックが甘かったかもしれません。

キラ1階奥には休憩室がありますので、そこで腰かけることができます。水分補給は可能ですが、紙コップのため量が少なく真夏の水分補給には厳しかった。もちろん館内の他の場所は飲食禁止ですからここでだけしか飲めませんが、ペットボトル持参が望ましいと思いました。この休憩室では博多会場での松本零士先生との対談のダイジェスト版が流されています。休憩しながらご覧になるといいと思います。

2階、3階へあがるためのエレベーターもありますので、車いすの方も大丈夫です。私が見ているときもいらっしゃいました。

新潟会場からずっとコーディネイトされている方は同じなので、同じ展示のはずですが、会場の個性に合わせておられるようです。会場によって苦労されている点もバラバラで、巡回展の理想と現実、という感じです。でも「この会場だけ」という方が圧倒的に多いので、やはり順路は大事にして欲しいところです。

2018.08.15 23:08 | イベント

高崎での萩尾望都先生と浦沢直樹先生の対談レポート

高崎市美術館2018年8月4日に高崎シティギャラリーで開催された「萩尾望都トークショー」のレポートです。ゲストは浦沢直樹先生。お二人はNHKの「漫勉」で対談されました。高崎駅から徒歩12分くらい。この日はお祭りで、出店の準備中の道を歩いて会場までいきました。
記憶に残っている萩尾先生の発言を中心に書いていきます。

日時:2018年8月4日(土)14:00~16:00
会場:高崎シティギャラリー コアホール(群馬県高崎市高松町35-1)


●プレゼント交換
まず、プレゼント交換。萩尾先生から浦沢先生へ「ポーの一族」のDVDが贈られます。浦沢先生、宝塚をご観になったことがないそうです。浦沢先生「ポーの一族」のDVD、観て下さったかなぁ?浦沢先生は萩尾先生へ「マノン」というご自身のセカンドアルバムのCDを贈られていました。

高崎市民ギャラリー●萩尾先生のSF原画展開催の経緯と感想
萩尾先生「写真スポットとかの仕掛けがしてあって驚いた。シルクスクリーン(私はタペストリーと呼んでます)がたくさんあり、自分の絵が拡大されていてちょっと恥ずかしかったけれど、きれいで見応えがあった。原画展とアミューズメントパークが一緒になっているようで、とても楽しい。」

●印刷考えてないで塗ってる原画
司会者から原画展の感想を聞かれた浦沢先生ですが、萩尾先生が印刷のこと気にしないで塗ってることを突っ込みます。浦沢先生は描いてもどうせ印刷には出ないからこの辺までと思って止めているけれど、萩尾先生の絵は明らかに印刷のこと考えてない。萩尾先生のよく使うグリーンがかった青、ああいうのは絶対出ないんだそうです。その青はルマカラーの青というかアクアマリンとのこと。確かに青は印刷に出ないので版下に青鉛筆で印刷所に指示を書いたりします。
また、萩尾先生の原画にはちょっと銀が入ってるところもあるけれど、あれも出ないと。普段印刷物として接している萩尾先生の絵は氷山の一角だったんだなということが今回の原画を見てわかった。でも、いつも色校のときとか文句言わないのか?と疑問を。

それに対して萩尾先生は基本出ないと思っているから印刷に文句を言ったりしない。その理由は、あるときマチスの画集を買って美術館で見た自分の好きな絵を見たら全然違う。美術画集でさえ出ないのだから、マンガでは無理だと思ったから。また、デビューの時から絵が下手だという自覚があって、頭の中で考えているものを画面にうまく描けないとずっと思っていた。もっと勉強しなきゃという気持ちがあって、下手に注文つけたら下手なくせに何を言ってると言われそうで。それもあってちょっと言えない、と。萩尾先生が下手だから文句言えないなんて、誰も文句言えなくなりますよね。

●電子配信について
萩尾先生は電子書籍を許可していますが、「暇とお金があれば紙で見て欲しい」そうです。「本は手にもって開く加減がある。めくるだろうというタイミングを考えてコマ割りをする。電子配信だとタブレットの種類によるけれど、見開きがいっぺん目に入ってくる。本だと見開いたこちらの端から目が追っていく。いきなり目が画面全体を見るというのは感覚が違うだろうと。ただ、全100巻の単行本なんて海外旅行にもっていけないし、海外に住む人が急に読みたいと思っても手に入るまで時間がかかる。電子配信だったら簡単に手に入る。どんなにコレクションを集めても図書室いっぱいにはならない。そこは便利だなと思う。タブレットは電源が必要なので、タブレットをもって行って電源(充電用のコード)を忘れたこともある。」両方の良いところをしっかりご理解されていて、作家としてはやはり「紙で読むリズム」を重視していると。これっておそらくやろうと思えばアプリで解決できるんですよね。

●絵の変遷について
浦沢先生はこの原画展を見ていると萩尾先生に絵の移り変わりがあることがわかる。少女マンガ系からリアルに移り変わっている。「A-A'」の頃は青年誌系というか、少女マンガを脱している絵だ。どういうモードでこの絵が移り変わっているのかなというのは興味がある、と。それに対し萩尾先生は「それは単に歳をとったから。少女感覚から自分が遠ざかっていくのがわかる。30前後くらいで一回切り返しがくる。」と。浦沢先生は「A-A'」が好きだそうです。


●手塚治虫「新選組」の衝撃
萩尾先生と言えば手塚治虫「新選組」。この話を浦沢先生がふりました。

「高校生の頃、少年マンガも少女マンガも手に入る限りのマンガを貸本屋さんなどで読んでいた。でも両方あれば少女誌の方から手にとってしまう。手塚先生の「新選組」が単行本になって書店に並んでいたので、いつか買って読みたいなと思ってお年玉をもらった高校2年のお正月に読んだ。主人公は丘十郎という名前で親の敵を討つために強くなろうと新選組に入って、新選組の思想に染まりながら強くなっていく。丘十郎には大作という親友ができるが、彼が敵方のスパイだった。丘十郎は彼をスパイとして告発して切らなければならないと追い詰められていく。そのときの心境に何故かものすごくシンクロしてしまった。丘十郎は大作を切りに行くとき、二言しか言ってない「大作、許してくれ」。でも私がそのシーンを思い出す時、山のようにセリフが出てくる。でもそんなこと全然書いてなくて2行だけだった。

「新選組」は手塚先生の作品の中では特に有名でも特に名作という作品ではない。多分その当時の私の心境に何故かぴったりフィットしてしまった。一気に引きずられてしまって、それまで遊びでマンガを描いていたりしていたけど、ちゃんとプロになってこの「新選組」で受けた衝撃を誰かに返したいと思った。人間の心理がここまで深く描けるんだなと。深い心理を2行で描く手塚先生はすごい。

手塚先生は葛藤を描くのが得意。全体のテーマになっているところがある。「鉄腕アトム」は人間とロボットの間に立ち、どちらからも引っ張られてる。時代劇なら幕末明治維新で二つの時代に挟まれて死んでいく者と生き残る者がいる葛藤を描く。勧善懲悪ではなく、わかりやすく少ない言葉で葛藤を描いている。世の中には二つでは割りきれない、曖昧なものがあるということがわかっていらしたのかなと思う。」

●萩尾先生の絵の描写について
浦沢先生によると、年々萩尾先生の絵が鬼気迫る感じになっている。それは目の下の線のせいかもしれない。目の上のまつげは少女マンガはきれいに描くのだけど、三日ぐらい寝てないんじゃないかというような、目の下になんとも言えない焦燥感というか泣きはらしたような線がある、と。「自分の絵でもそれを最近使うようになった。あの目の下の描き方は萩尾節なんじゃないかと思う。」

萩尾先生も「昔は下の線をあまり描かず上だけだったけれど、下のラインを入れてみると、表情に味が出てくる。」と同意。
「だんだん歳をとると握力が弱くなってくる。そうなると昔は簡単に引けた線が、ある時あっちに行ったりこっちに行ったり、さまよい始める。一発で引けたのが4回くらい引かないとならない。これは筋力のせいなんだけれど、頭の問題でもある。「はい、まっすぐの線を引く」とか頭に言い聞かせながら引いている。若い頃、指の関節に脳があるんじゃないかというくらい、考えなくても引けた時期がある。ところが歳をとってくると、やっぱり関節の脳が干上がってくる、動かなくなってくる。頭の方をの脳に頼るようになってくると、距離があるのでなかなか思うような線が引けない。今はそれで四苦八苦している。」

●萩尾先生と浦沢先生の出会い
浦沢先生がが一番最初に萩尾先生をお見かけしたのが、手塚先生をお見かけした小学館のパーティで、同じ時だったそうです。デビュー1年目でまだまったく無名の新人だった浦沢先生が編集者と一緒にパーティー会場の中に入ったら、手塚先生がすっと近づいてきた。浦沢先生の担当編集者は有名な長崎尚志さんでしたが、長崎さんは直前まで手塚先生の担当だったため、彼の姿を見るや「すぐ帰るから」と言って逃げた。長崎さんはもう担当じゃないのに。本当は手塚先生にご挨拶したかったのに、逃げてしまったから挨拶できなかった。そして生の手塚先生を見たのはそれ1回こっきり。

そこにはキラ星のごとくマンガ家の先生がいらしてクラクラしてしまったので外れたところの椅子に座っていたら、向こうの方から萩尾先生が黒いマントみたいなものを着て、ふわーっと風を起こしながら自分の目の前を通り過ぎていった。その後、ファンの一団が「モー様、モー様、モー様」といいながらついていってて。すごいなマンガ界ってと思った。自分にとってマンガ界のきらびやかな感じってイコール萩尾望都先生。すごいカッコイイものを見てしまったなと。(浦沢先生、それファンじゃなくて、若い女性漫画家たちだと私は思います。いや、ファンで間違いはないのですが)。


●「漫勉」の話
漫勉DVD浦沢先生「「漫勉」に登場した萩尾先生の仕事場の様子にショックを受けた視聴者がいる。萩尾先生の作風からすると、もっときれいなお城みたいなところでロココな感じで仕事されてるのかと思ってたようだ」と。萩尾先生は「片付けてあんな感じ。今はもっと凄いことになっている。どんどん山積みになっていて下の方が取れない。どうしてこうなっちゃったんだろうと思いながら、また前に積むという状態。」

●「百億の昼と千億の夜」のネーム
萩尾先生「この展示をするにあたって、河出書房新社の編集者・穴沢さんががうちからいろいろな原稿をもっていった。自分でも忘れているようなものを発掘してくれて、「百億の昼と千億の夜」のネームが見つかった。見つかるまでそれがあることを忘れていた、あれはちょっとおもしろかった。

『少年チャンピオン』の連載だったが、最初から完成したら単行本にすることが決まっていて、描く前からページ数が決まっていた。光瀬先生のSFの原作を400枚に収めましょうと連載前に全部ネームを起こした。収まるかなと思って小さめに描き始めたら、そのままネームになった。お話の醍醐味はもっと波瀾万丈な小説の方を読んで味わって欲しい。

いろいろな仏像がでてくるので、取材のために奈良と京都をぐるっと回ってきた。今はケースに入れられている興福寺の阿修羅像がまだ何もなくぽんとおかれていたので、ぐるっと一周して見ることが出来た。きれいだなと。楽しかった。

〔原画展で展示されている阿修羅王の墨画の話〕画板にどんなふうに墨がのるか確かめたくて、実験で描いた(遊びでと言いかけて言い直されました笑)。大きな絵が描きたくなる。大きな画面で絵を描くときのおもしろさというのは、画板が大きくなると全身で描くところ。上から見たり下から見たりする。」

●「A-A'」
「「A-A'」は最初ネームに手こずった。ストーリーは出来ていたけど、どういうエピソードの順番で描こうかとなかなか決まらなくて。普段はネームが出来て絵に入るが、絵に入ってから細々とネームを直しながら描いた作品。絵を描き出してから、表情を見て、この人こんなこと考えていたのかとわかるときがある。そういうときはしまったと思う。

●宇宙空間について
スター・レッド萩尾先生「どうしたら宇宙空間を描けるかなと考えた。夜の暗い空にベタを塗ってホワイトを飛ばせば宇宙空間になるはずなのだけど、単にそれを描いてもただの虫食いやテーブルにキノコが散った後のようになってしまう。奥行きとか、奥行きの向こうは何万光年ある、とかいうのをちょっと出さないといけないので、ないはずの風を流してみたり、グラデーション流してみたり。そうしたら最近宇宙空間のことがわかってきた。ダークマターとかいろいろ。だから電波の数字がここに現れていることにしようと思って描いている。

宇宙理論的なことはとても難しいのですぐ忘れてしまい、単にイメージになってしまう。ビッグバンの話だって何とか理解したくて結構本を読んだけれど、理解できない。何にもないところから、なんでうまれるの?とか。」

●レイ・ブラッドベリ
お二人ともレイ・ブラッドベリはお好きなようです。
浦沢先生「レイ・ブラッドベリは宇宙を扱った小説でありながら、すごく文学的。最初の1~2ページ続く空間描写があるけれど、あの感じの積み上げで文学性がある。地球上のことのようにSFを書く。そういうところに萩尾さんと共通性がある。ブラッドベリの感じを損なうことなくマンガ化されている。」

萩尾先生は「ブラッドベリは本当に好き。二十歳ちょっと前ぐらいに本屋さんで偶然見つけた。「10月はたそがれの国」「ウは宇宙船のウ」と2冊出ていたので、その日は1冊だけ買った。一晩で読んでしまったので、翌朝すぐに残りの1冊を買いに行きました。どっぷりブラッドベリにひたってしまう。文脈が美しい。

ブラッドベリは子供の話が多い。少年が大人になる話や少年がどこかに行く話。大人の人も微妙に少年時代を引きずっているような不思議なところがあったりする。子供が周辺の世界に対してもっている不安や謎を一人のキャラクターに集約していく。よくできた優等生みたいな子がみんな不安がっている。そこが好き。

ブラッドベリの小説でリリックな作品の他に、怖いものがあったりする。カタコンペの中に入っちゃう話とか(「10月はたそがれの国」から「次の番」)、お祭りのドクロに追っかけられる話とか。読んだときはものすごく怖くて、ちょっとついて行けなかった。考えてみたらこの両方があるからバランスが取れているのかなと思った。」

●「MONSTER」
萩尾先生「「MONSTER」のヨハンが気になって。あんな人いちゃいけないんだけど、不思議な人。」

浦沢先生「一番最初にドクター・テンマと出会ったときにヨハンが人を撃つシーンがある。衝撃的に描けたと思ったけれど、ずっとこんなことやっていたら、読者に愛情をもって接してもらえる人にならない気がして。そこで彼は人を操る男にしようと思った。マインドコントロールして、コントロールされた人が操る。自分で実力を行使して人を殺めたのはあの最初の1回だけなんです。あとは全部人にやらせてる。

「A-A'」のアディはヨハンに近い。一角獣種は感情がないのですが、あの感じはちょっとヨハンです。最後にアディが感情のない状態ですっと涙が出る。ああいうのに自分は弱い。」

萩尾先生「発達障害とかまだ知られていない頃だけど、私も結構何考えているかわからないとか、いろいろ言われて。「あんた平気なんでしょ?」と言われて「いや結構傷ついてるんだけど」と。それで平気なんだけど、傷ついてる子を描こうと思った。のが「A-A'」。」


●「スター・レッド」
浦沢先生が「スター・レッド」はウルトラマンとは関係ないのかと質問されます。

萩尾先生は写し出されたスター・レッドのセイの画像を見ながら、「言われてみれば赤と白で同じ。ウルトラマンはほとんど見たことないが、テレビのコマーシャルに時々出てくるのでウルトラマンというものがあるということは知っている。あのシャープなデザインはいいと思う。何か影響は出てるのかもしれませんが、あまり関係はない」と。

浦沢先生はその赤白の話から、マンガは白黒なんだけども、萩尾先生はいつもカラーで考えているような気がする、と。

萩尾先生は同意して、「部分部分はそういうイメージはある。結局活版で描くから線で描いてきれいに見えるように描いている。でも「ポーの一族」などはイメージが先行する作品だから、色つけるとしたらこんな感じかなというのは最初はあった。ネームの段階からもう総天然色。ぼけているようなブルーをどのくらいの粉のペンで動かしていくとか、そんなふうに考えながら描いている」と。

●コマの使い方・画面構成
ママレードちゃん司会の飯田耕一郎先生がマンガの専門学校の先生なので、画面構成の講義に入ります。
「萩尾先生の「ママレードちゃん」の最初のページ。コマの流れがすごくよく出来ている。最初にドンとぶつかる。次にオレンジが散って、それが転がっていくという流れになる。普通ならぶつかってコマが展開するときに横長にオレンジが転がるというように描くが、萩尾先生は突然縦長のコマでどんとスピード感を出して下まで流れるように描く。そこからヒーロー役のジェフが出てきて、後ろのヒロインの顔が出てくるという画面構成。ぶつかる→オレンジが飛び散るコマはまわりをベタにして、1回コマを止める。そこからオレンジが縦長のコマで流れるのはインパクトがある。コマのセリフの流れでキャラクターが登場し、最初のページで主なキャラクターを紹介している。

ママレードちゃん2次のページ。女の子の方が彼に気圧されているので立ち位置が男の子の方が上に型抜きでおいてある。その次のコマで女の子が箱を受け取った瞬間に「さぁいくよ」と有無を言わさず車が走っていくという展開に流れていく。この斜めのコマ割がすごい。一番下のコマはもう着いてしまっているのでちょっと停める。動きのないように中心にキャラクターをおく。また次のコマに展開する...というようにどんどんスピードよく見せている。縦コマや横コマ、大きさの違い等、コマの表現で見せている。吹き出しの位置もうまく配置されているのでテンポがよい。」

萩尾先生「こういった画面の動きというのは、どちらかというと音楽的なものではないかと思う。「恐怖の報酬」の映画を観ていたような動く画面のリズム感が身体の中に入っていて、ここで右見て左見てと考えて配置しているというより、ダンスのコレグラフのようにクルッと回る感じで描いている。

「ママレードちゃん」の3コマ目と4コマを縦長にしたのは、目線が上から下にいくと落下する感じが出る。キャラクターたちが上にいて目線でオレンジを追いかけていくと、読者も落ちる感じがある。」

浦沢先生「萩尾先生は横長のコマが多い。あれを積み重ねていく横長効果っていうのはどういうものなのか?」

萩尾先生「横長効果は同じキャラクターを二つ出すと、例えば手前からこちら側に迫ってくる感じ、逆だったら、こちらにいたのが遠ざかる感じ。距離感がすごく出しやすい。相手がいる場合には、それをちょっとよけると、今度は二人の立ち位置がわかりやすくなる。そのリズムがおもしろくてよく使っている。」

●「銀の三角」
銀の三角萩尾先生「これは殺した男の中に過去のイメージがすべて取り込まれてしまう。イメージの方がここに一点集中するのが嬉しくてしょうがない。だからみんな踊りながら入り込んでいる。これからみんなその中に入ると蚊取り線香のように渦を巻きながら入って行くというイメージを出すためにこんな感じにした。」

浦沢先生「締切が近づいても描きたい絵があったときどうしますか?」

萩尾先生「大変な絵はなるべく先に描く。いっぺんにあがらないのなら何日か分けて少しずつ描きます。この頃は1日4~5枚描けたけど、今は1日2枚。」

●手塚治虫先生の思い出
萩尾先生「手塚先生は呼吸したらどんどん話がつくれたのではないか。脳のサイクルと呼吸のサイクルが一緒になっていたのではないかというくらいだった。一度どこかのパーティで一緒になったときに「萩尾さん、どんどん描きなさいよ。」と言われて「ありがとうございます。でも私、話をつくるのになかなか時間がかかるので。」と言ったら「どうして?」と。手塚先生からしたら、お話はつくるものではなくて「ふぅ~」と息を吐いたらできていくものだったのでしょう。」

●原作つきの作品について
原作つきの作品について、萩尾先生はなるべく原作に近づけて描くそうです。「原作は自分にない発想をしていたり、自分が憧れている世界だったりするから。ジャン・コクトーの「恐るべき子どもたち」は文章の世界を絵に映し出したらどんなふうになるかなと。「恐るべき子どもたち」を描く前は少女マンガのキャラクターを描いていたけど、この作品はそのキャラクターでは無理だなと思って、「アメリカン・グラフィティ・イラスト集」みたいな本を買ってきて見ていた。大人の女性が描いてあったので、ボン・キュッ・ボンという身体のバランスを見たりして、頭身を変えたりしてやってみた。」とのこと。確かに、「恐るべき子どもたち」で一度一気に劇画調というか線が太くなりますね。その前はブラッドベリの連載をしていました。

「ブラッドベリの場合はブラッドベリの世界観が好きだったから、風や星を絵に表現するという方向でやってみた。光瀬龍先生の「百億の昼と千億の夜」は光瀬先生が「好きに描いていいですから」とおっしゃったのですが、画面にして見やすいもの、きれいなものから当たっていって、難しく説明されているところはマンガで描いても誰も読まないと思って省略する、そんな感じで描いていた。」

「子供の頃、マンガをマネして描いていた頃は、キャラクターが描けなくて、いろいろな人の作品のキャラクターをマネして自分でお話をつくっていた。おじいさんってどうやって描くのだろう?と思ったら、水野英子さんのマンガのおじいさんを見て、それを模写して描いていた。ちょっとカッコいいおじさまが出てくるとなったら、わたなべまさこさんのマンガを見ておじさまを描いていた。もうちょっとサラリーマン風なら横山光輝先生の「おてんば天使」のお父さんのキャラクターをもってきたりとか。自分が描くので似ても似つかないが、マンガ家の描く作品の中にすべてのキャラクターはいると思っていた。」

●再び「漫勉」の話
漫勉DVD浦沢先生が再び「漫勉」について語り始めます。「「漫勉」は自分が全部の企画を立て、画面構成も考えた。メイン画面には描いてる絵をずっと出しておく。マンガ家の対談や話の中で説明しなければならない脚注的なところは小さい画面でいい。メインは白い紙から完成するまでをなるべくノーカットで映し出す。しかも音を入れること。マンガ家の横にカメラマンが立つことを禁止し、高性能の4Kリモートコントロールカメラ5~6台を設置する。そこから送られてくる映像をスタッフが別の部屋で見る。これはマンガ家さんが撮られていることを意識しないようにというためのもの。

それで撮られた映像を自分が見て、編集してもらったものを対談の時に見る。対談には脚本も進行表も何もない。何故かというと、自分がマンガに関するテレビを見ていた時に思っていたことなのだけど、マンガについてわかってもらおうとゼロから話を始めると1にも満たないうちに30分や1時間の番組は終わってしまう。だから5か6くらいから話を始めたい。プロ同士の会話だから、そこから始められる。見ている人がわからないことがあったら画面で説明すればいい。

だから脚本も進行表も何もない。自分がタクシーから現場に降りたら、いきなりマイクをつけられてスタート、というだけの番組。えらいたいへんだった。マンガ家というのはミーアキャットみたいなもの。穴を掘って中にひそんでいて、時々ぴょっと出てくる。その生態を「ディスカバリーチャンネル」でやっているように、穴にカメラをしかけて夜まで待つ、みたいな感じで撮影して欲しいとテレビ局のスタッフに言った。」


萩尾先生、ご自宅の撮影体験を語ります。「うちにも撮影隊がきて、遠隔操作のカメラを机の前において、仕事部屋からコードを引っぱっていって、スタッフの人たちは奥の方の部屋にいて、10時間ぐらいずっと見ている。とてもたいへんそう。他の人のを見るのはとてもおもしろかった。さいとうたかを先生が直描き(じかがが)かと驚いた。あんなにたくさん作家さんの手元を見たのは始めて。」

萩尾先生のペンの持ち方については番組内で触れていました。実際にどうもっているか見せて下さるのですが、残念ながら私にはよくわかりませんでした。マンガ家の先生は普通はペンだこが出来るけど、萩尾先生の持ち方だとペンだこができないそうです。ペン先の押さえ方が違うようですね。萩尾先生はペン先の方を持ってるようです。でもペン先から指を離した方がペンの速度が出るそうです。青池先生に聞いてみたら、小指にかかるとのことで、いろんな持ち方があるんですね。


●最後に「萩尾望都SF原画展」の見どころ
萩尾先生が最後にこの原画展の見どころを語ってくれました。「古い時代から「バルバラ異界」くらいまでずらっと揃っているので、時代ごとに線もキャラクターも変わっていくので、人間ってこんなふうに変化していくんだなというのを見てもらえたらおもしろいと思う。その中で多分この時代は特に好きとかこの時代はちょっとイマイチとかいろいろあると思うけど、人間の一生を通じて上がったり下がったりする作家の年代記みたいなものを感じながら見ると、それはそれでおもしろいのではないかと思う。」

浦沢先生「SFに縛られない、本当の萩尾望都展」が見たい。「ポーの一族」の全ページ展示とか見たい。」

萩尾先生「小学館の担当にそういう希望があると伝えておきます。」



いい締めでしたね。全時代を網羅した萩尾先生の原画展は40周年のときにやっているので、来年50周年の記念にやってくれないかなぁ>小学館。

2018.08.15 15:54 | イベント

女子美オープンキャンパス2018の萩尾先生公演レポート

女子美7201号室2018年7月15日(日)女子美術大学のオープンキャンパスで萩尾望都先生の特別講演が開かれました。講演のレポートをお送りします。毎回のことですが、メモと記憶から起こしているので間違いや抜けたところはたくさんあると思います。あらかじめご了承ください。

暑い日でした。萩尾先生も「歩きながら蒸しパンになりそうでした」とおっしゃっていました。内山先生と萩尾先生が登壇され、内山先生が萩尾先生をご紹介されました。その中で「ポーの一族」が宝塚で上演されたお話をされていて、萩尾先生が「手前味噌ですみませんが、素晴らしい舞台でした。」とおっしゃり、内山先生が「宝塚の『ポーの一族』を観に行った方」と呼びかけると、かなり多くの手があがりました。萩尾先生が「チケット取りにくかったでしょう、すみません。」と。


女子美術大学オープンキャンパス特別講演
萩尾望都先生漫画の世界「物語を創る・描く」
日時:2018年7月15日 15:00~16:00
会場:女子美術大学 7201号室


この日は「物語を創る」というテーマがあがっていました。「どうやって物語を頭の中につくるのでしょうか?」というところから先生のお話は始まりました。


物語は妄想の一種です。こうあればいいのにという願望や、願いのようなもの。ことばからきれいな物語が浮かんだり、映画を見ていてその結末が不満で、自分でその結末つくりかえて物語をつくったりと、いろいろです。

私の場合は違和感です。人と話していて、「そうだよね」と思っているときは物語は生まれなくて、「違うな」と思ったとき、私ならこんなふうにすると思ったときに物語が生まれます。

●ビアンカ
「ビアンカ」の扉例えば「ビアンカ」はどういうきっかけでできたのかというと、アンナ・パブロワというソ連のバレリーナが子供時代に「森でよく踊っていた」と話したのを聞いたのがきっかけです。「バレリーナ希望の少女が森で踊っている」というイメージがすごくきれいだと思って、森で誰かを踊らせたいとお話をつくりました。

少女が森で一人踊るということは、両親は近くにいないのだろう、などと考えて話ができていきます。少し年上のいとこの女の子の視点から描いたのが「ビアンカ」です。小学校から高校までバーネットや「若草物語」「赤毛のアン」など海外の少女小説をずっと愛読していて、海外のきれいな生活に憧れていました。「ビアンカ」はどこか知らない外国の話で、決して私が育った大牟田の炭鉱町ではありません(笑)。


●トーマの心臓
トーマの心臓 オープニングの2ページ「悲しみの天使」(現在「寄宿舎」)というフランスの男子寄宿舎を舞台にした映画を見に行きました。学校生活がとてもきれいで、少年達が美しかった。主人公の少年が誤解したまま自殺してしまったという結末が悲劇的でした。死んだ子供を取り戻したいと思い、死んだ子供をめぐる話にしました。
トーマは14歳で自殺します。当時私は若かったから若気のはずみで描きましたが、いまだったら絶対こんな設定にはしません。なんてもったいない。いまだったら死ぬ理由がこんなにピュアではなくて、いろいろくっつけてしまいそうです。ベタですが、継母がいるとか。若さの勢いで描いてよかったかもしれないと思います。大人になって汚くなってくると、どんどんいろいろなものがくっついてきますから、この時代でしか描けない話があると思います。

物語を膨らませていくとき、寄宿舎にはどんな人がいるかなと思い、キャラクターをずっと考えていました。いろいろなキャラクターを10人くらい描き流していったら、そのうちいいキャラクターが何人か目力で訴えてきます。いい顔が描けたのでしょう。そのキャラクターの中にトーマもエーリクもオスカーもユリスモールも入っていました。最初は名前もついてないのですが、じっと見ているうちに、だんだんそれぞれのキャラクターがこういう人物であるという、役割分担の作業をしてくれるようになります。

「トーマの心臓」を描く前に見た「寄宿舎」は男子寄宿舎で下級生と上級生が恋仲になってお互いに好きになってしまうという話だったのです。「男の子どうしが好きになってしまうなんて変」と思いながらが「いいなぁ」と思って観ていたのす。「好きだ」と言って死んでしまう子がいて、言われた方(ユリスモールですね)が「男どうしで好きなんて変じゃないか」と最初は思うけども、そのうち好きになっちゃう設定にしてしまおうと考えました。
「自分は知らない」という冷たい子が頭に浮かんで、「冷たい」をキーワードにしてキャラクターをつくりあげていったら、それがすごくおもしろかった。「でもホントは好きなんじゃない?」と思いながらつくっていくと、次第に心を開いてくれます。

「できたな」といういい話は、考え始めてからだいたい一週間くらいでメインの話ができ上がります。その後少し軌道修正したりすることもあります。ユリスモールが「冷たい」過去には何があるのだろう?と考えました。キャラクターがすごくいい感情を発揮したり、すごくいい台詞を言ってくれたりする場合があります。

トーマの心臓 第1回見開きの扉お父さんとトーマが立っていて、お父さんが夕陽を指さしている絵です。描いたときは何の気なしに描いたのですが、後になってそのシーンを何度も思い浮かべているときにわかったのです。二人はすごく重要な話をしていました。トーマはお父さんに「どうして神様は人間が一人では生きていけないような寂しいものにつくったのか」と聞いて、お父さんが「それは人間が永遠にあるために魂をつくった」「誰かを愛さずにはいられないのだ」という話をしています。これは実際に表紙の絵を描いているときには浮かばなかったのですが、何度も思い返しているうちに浮かんできました。


●幼少期の先生のお話
小さい頃はよく漫画を読んでいました。寝てからその日読んだ漫画を全部頭の中でリピートしていました。私は二十歳くらいまでは読んだ漫画を全部覚えていられました。コマ、台詞、キャラクター、何度でも楽しめるのです。写真に撮したように覚えています。たぶん視覚の記憶力がいいのだと思います。
※「この中で漫画全部のページが頭の中に入れる人がいますか?」と内山先生が聞くと会場で一人手をあげる人がいました。

漫画を描くときに「このシーンどうしよう」と思ったら、過去に読んだ漫画のシーンが思い浮かぶ。手塚先生はこんなふうに描いていたなとか頭の中でシミュレートできます。お手本がたくさんあるので助かりました。

●マージナル
マージナル1(小学館文庫)の表紙「地球の未来」というテーマはいろいろな作家が書いていますが、ジョン・ウィンダムなど女だけが生き残ったという社会を描いたSFが多いのです。じゃあ逆に男だけ生き残った社会というのはどうだろう。男だけだから子供は産まれない。そこを何とかやりくりして、物語をつくってみたらおもしろいだろう。第一、男だけならイケメンをずらりと描けるなと思って考えてみました。

女がいなくなった地球の未来はやはり荒廃しているでしょう。みんなドーム都市で生きていますが、ドームの外に村はある。村人たちがドーム都市にやってきて、子供は中央政府が順番に与えていく。ミツバチの女王のような唯一の存在である「マザ」が産んでいるという設定になっているが、なかなか子供をもらえない村人が怒って暗殺に行くという話です。

マージナル ドーム都市どんなストーリー展開にするか、スケッチブックにずっと書いていきます。キャラクターができてくるとキャラクター同士で会話を始めるのです。それを聞きとりながらずっとストーリーを考えます。楽しいですよ。物語を考えていると、脇に逸れたり戻って来たりしますので、余分な部分を省いて物語に必要な分だけをピックアップしてこのような会話になっていきます。物語のあとはコマを割って構図を決めて、展開していくか、どんなふうに見せるかということは毎回考えます。

お話がわかるように、主人公が誰かわかるように、誰がどこにいるかわかるようになど、そういう基本的なことを押さえながら描いていきます。頭の中ではこうだとわかっているので、ついつい説明したくなってしまうのですが、説明っておもしろくないから誰も読まない。それをどんなふうにおもしろく伝えるか、詩的に語るとか、きれいな絵を描いて説明と気付かせないように説明してしまうとか。
人間は呼吸をしているので、呼吸のリズムとコマのリズムと台詞のリズムを音楽の流れのように割り振っていくと、読みやすくなります。音楽にはリズムがあります。画面もそうで、コマを割ったりキャラクターを描いたり台詞をおいたりするときに、リズムをつくります。このリズムがうまく読者の目線を誘うように、呼吸に合うように割り振っていくのです。自分で描きながら自分も呼吸していますから、自分の呼吸に合わせている。これがうまくいくと、そのページを開く度にいい呼吸が生まれる。心地いい感じをフィードバックしていきます。

●銀の三角
銀の三角このページはずっとこの星の状況とお祭りのときの話をしているのですが、これは説明なので、台詞をちょっと読みやすい詩のような文章にしています。例えば右の一番下のコマにはアップのイケメンが出てきて、2行しかおかない、というようにメリハリをつけています。横長のコマが続いて、左側のページにはいろっぽい女の人の目つきなんかを入れてみる。
いい音楽が頭の中を流れているような感じで、いいコマ割ができて、いい構図ができていくと、気持ちがいいなと感じます。

〔時間軸をどこからどこまで描こうかという案配〕
原稿の前のネームでざっとした下書きを描きます。今回は16枚しかないのに20枚予定していたとします。4ページあったらいろんな女の人を横長1枚で描くかもしれないのですが、それを削ったり、何度も何度も見て重複してこれはなくても大丈夫だろうというところを削ったり、そんなふうにして最終的なネームをつくって、画面に写していきます。

●スター・レッド
スターレッド 文庫本表紙編集さんに「三日後に予告入れてくれ」と急に言われました。タイトルをとにかく決めてくれと。「スターウォーズ」が流行っていたので、「スター」で始まるタイトルにしようと思い「スター・レッド」と名付けました。安易ですね(笑)。何故「レッド」にしたんでしょう?地球に住んでいる宇宙人の話を描こうと思い、火星人にしてしまえと思いました。火星人だけど地球人のふりをして暮らしている子にしようと。そこから一週間、必死で話を考えましたが一話以上は考えつかない。その都度その都度考えようということにしました。

火星の写真集を見ながら、地球を脱して火星に移民した人の子孫の話にしようと思いました。超能力者の話を描きたかったので、火星人で超能力者になりました。地球で育っているけれど、いつも火星にいることを夢見ている子です。

スター・レッド セイの過去セイは主人公にしたときから、とても強く自分のことを主張してくれて、語ってくれてました。自分はこんなふうに地球で生きているけれど、いずれは火星に帰りたい。火星で過去私はこんなふうに生活していたという話をどんどんしてくれます。
見開きのこちら(右)に彼女の過去のエピソード、火星で旅している姿が描かれていますが、ネームをしていたときは3ページで構成されていて、まず彼女の過去の旅の話が1ページ、それから見開きでキャラバンを旅している姿を描く予定でしたが、結果2ページで仕上がっています。ぎゅっとまとめた分、逆に見開きの構図がいい案配に見開きにきれいに入ってくれてよかったです。

スター・レッド 夢見これは主人公のセイが火星に行って自分たちの仲間に会うシーンです。みんな超能力者で、これから起こることを予言しています。持っている杖がなって、みんなトランス状態になって予言をしますが、それが「セイは災いの元だ」と言われているというシーンです。地下の洞窟なので太陽の太陽の光が入らない。光がなくても良いのです。この人達はみんな超能力で周辺をセンサーのように感じているので、元々目は光を感じることはない、という特殊な設定にしています。

●柳の木
柳の木台詞がなくて、大きなコマが淡々淡々と続いている作品です。これは死んだお母さんが息子をずっと見守っているというお話なのです。昔、知っていた人に、子供の頃お母さんを亡くしたけれど、お母さんが死んだということに対してお母さんを恨んでいるのです。それはたいへんだなぁと思って。でもお母さんの方の気持ちはどうだったのかなと思いついて、この話を描きました。
川の側の柳の木と女の人、という構図はずっと変わりません。まわりの風景は変わっていますが、女の人は変わらないままです。


●トーマの心臓 未公開ネーム
これは「トーマの心臓」下書きで使わなかったシーンです。映画を観て「トーマの心臓」を思いついて描き始めたときのものですから、編集部からの制限が何もないわけです。素直に描いていった中にあったシーンの一つです。

●ポーの一族 ユニコーン
月刊フラワーズ 2018年7月号どうやって漫画を展開させるのかの話ですが、例えば「ユニコーン」だったら、カラーが3枚に活版(モノクロページのことです。現在は活版ではありませんが、先生がそうおっしゃるので"活版"で統一します)です。カラーが3枚ということは、そのイントロダクションで読者のつかみをとった方がいいんですね。
ファルカとエドガーが出会って、「さわらないで」と言うシーンを1枚目にもってきて、次のページが見開きで、ここまでがカラーです。次に活版の1ページ目になります。
二人が出会ったシーンはミュンヘンのマリエン広場です。ていねいに説明したら、まずマリエン広場のシーンから始めて、ファルカが辻音楽みたいなのをやっていて、きょろきょろしていて、エドガーを見つけて、「あ、エドガーがいる」でエドガーに寄っていくというイントロダクションのイメージでいたのです。でもやっぱりエドガーが主人公だから、カラーだったらエドガーを入れないと、と思いました。

※ここで、もしカラーでなかったらどうなっていたのたかというネームを実演で描いてくれました

最初のネームだとまずマリエン広場から始まります。マリエン広場には時計塔というとてもきれいな塔があって、ちょっと遠景で時計塔を描きます。こんなふうに建物があって、ここにちゃんと「ドイツ ミュンヘン マリエン広場」と説明を書きます。
マリエン広場で何をしているかというと、ファルカがバイオリンを弾いていて、後ろで友達がピアノを弾いていたりします。広場を行き来する人々がいます。ファルカが「はっ」と気付くとマリア像のあるところの裏にエドガーがいます。ファルカが「エドガー!」と叫んで、エドガーがチラっとファルカを見て、そしてファルカが走り寄ってくる。というようになる予定だったのですが。そうなると主人公のエドガーが全然カラーページに登場しない。活版ならこれでもいいのですけども。

ポーの一族 ユニコーンカラーなのだから、エドガーはここから入れようと思いました。エドガーがいるところと、チラっとファルカを見るのをこのコマに集約してしまいました。ファルカが近寄ってくるというところは描けないので、もう手1本だけでだけで表します。それを止める。それで「さわらないで」というシーンになります。そして最初に考えていた「ミュンヘン・マリエン広場」というコマがここにはいってきます。最終的にはこういう展開になりました。

ポーの一族 ユニコーン編集にどういう話になるか、何ページくらい必要か、ということを説明するのは連載開始からだいたい半年から三ヶ月くらい前です。1ヶ月くらい前にカラー何枚、活版何枚で何ページですと言われます。このページを表紙にしても扉にしても構わないのです。最初のページに扉がきて、2枚目3枚目と物語を描いてもいいのです。私は扉の前に話を一つおくというのが好きなのです。扉は見開きで使えるので、好きな絵が描けます。

マリエン広場には動く古い人形時計があって、お盆の上をお人形がぐるぐる回っているのです(Das Glockenspiel am Münchnerで画像検索)。時間がくると、くるくる回っていきます。そんなイメージで「ユニコーン」に登場する主なキャラクターをおいてみました。

見開きから始まってそれから活版にいったり、見開きをフルに物語に使ったり、それは編集と相談して決めます。表紙見開きで、裏が1枚でいいですよと言われることもありますが、最初に物語が1枚あってそれから扉が見開きの方がドラマチックなのではないかと思います。

ポーの一族 ユニコーンポーの一族 ユニコーン
このシーンでエドガーがアランの話を始めます。ファルカは、アランはいないからアランは死んだものと思っています。ですからその話をしたくないとファルカが言う。エドガーは炭を抱きしめていたのだけど、どうも生きているみたいだと言い出します。ファルカはそれはただの炭で生き返らないと思っているから、エドガーの話を止めようとします。

ポーの一族 ユニコーン「無垢(イノセント)なものが欲しい」ファルカとエドガーが会話しているときに、このセリフをどこかに入れたくて、あっちにおこうかこっちにおこうかと考えたのです。「このトランクに炭になったアランが入っているよ」と言った後に入れるのか、それとももうちょっと後におくのかもっと前におくのか、考えたあげくにやっぱりページをあけた最初にこのセリフをもっていきたいと思って、この位置に入れました。

「ユニコーン」は来年からまた始めます。歴史を時間を行ったりきたりします。しばらくアランはトランクに入ったままです。


●質疑応答コーナー
Q1.だいぶ前のインタビューですが、先生が東大生の方にインタビューを受けていた中で、若い人に「大切なのは人間関係」だとおっしゃっていたと思うのですが、自分は引っ込み思案で積極的になれなくて、人間関係ができないのですが、そういう人はどうしたらいいとお考えでしょうか?

A1.私に弟がいまして、その子が引っ込み思案で人間関係をまったくつくれなくて、臆病になっています。その弟を見るにつけ、やっぱり人間関係は大切だなと本当にそう思うんです。実は私もどうしたらいいのかわからないのですが、私は気のあった人と過ごすのが好きで、この人、友達になってくれるかなと思うと、その人が迷惑するのにそばに行ったり訪ねて行ったり結構やっていたんです(笑)。「遊びに行っていい?」「なんで?」そんなことをやっていくうちに、だんだん付き合いが長い人、(一緒に)いて居心地のいい人というのがわかってきます。中にはちょっとキツイ人とか、タイプが違う人、うまくいかない人もいて、そういう人がだんだんわかってきます。なんでも少しずつやっていくのが一番いいです。そして、この人は一緒に過ごして気持ちがいいなという人を見つけていく。自分以外の人はみんな完璧というわけではないから、あなたのまわりにいる人も「友達をつくりたいけど、どうしたらいいのかな?」と思っているかもしれません。そういう人の中で少しずつもまれていくといいと思います。

いろいろおもしろい人もいたのですが、私がやっぱり苦手だなと思ったのは自分の意見を正しいと押しつける人です。そういう人は頭が良かったりするので、「いや、私はこう思うのですが」と言ってもクソミソにケチョンケチョンにされる。その人の話はおもしろいから、また遊びに行くのですよ。するとやっぱり意見が違う。だんだんもう意見が違ってダメだなぁと思いますが、と言っても意見を言わない人もおもしろくない。そういう兼ね合いってだんだんわかっていくのです。きっとそのうちどなたかに巡り会うのではないかと思います。巡り会うまでがたいへんだけど、巡り会えたらそれは貴重な人です。頑張ってください。

Q2.先生は「キャラクターが頭の中で会話を始める」とおっしゃっていましたが、それはそのキャラクターが言いそうだということがあるのだと思いますが、どうやってそのキャラクターの基礎設定はできるのでしょうか?

A2.私がわりと描きやすいのが、いじいじした暗いキャラクターと、それとはまったく真逆の「私はそんなこと気にしないもーん」という感じですっ飛ばしていくような人です。また、腹に一物ある人、これもなかなかちょっと含みがあって描きやすい。エドガーとアランのコンビネーションを考えたときに、本当に二人で思うように喋ってくれて。
描いた当時は夢中になっていたので自分でもこんなものだろうと思っていましたけれど、40年ぶりに描き出してみたら、本当に二人でだーっと喋ってくれるので「あぁ、キミたちはいいキャラクターだね!」「ごめんね放っておいて」と反省しました。
自分の中の願望とか夢とかこうあったらいいのにというものがキャラクターとして具現化したものだと思うのですが、うまくそういうのが見つかったら大切に育ててあげるといいと思います。


11人いる!Q3.「11人いる!」のフロルというキャラクターの設定が生まれたきっかけを教えてください。

A3.「11人いる!」の設定を考えたときに、すごくきれいな男の子が一人いたら、みんながびっくりするだろうなと思ったのですが、それが両性具有とか未分化だったら、もっとおもしろいなと思いました。どっちになってもいいようなという設定はちょこちょこSFであります。すごく有名なのはル・グウィンの「闇の左手」。手塚治虫先生の「メトロポリス」に両性具有のロボットが出てきます。ほ乳類と鳥類以外では性が決まってない場合が多い。そのキャラクターはきれいだけど自分は合格して男になりたい、長男かしか男になれないという世界からきた、というふうに段々できていきます。宇宙大学のテストなのだから、本当は男女混合のはずなのですが、その辺の説明はちょっとすっとばしてしまいまして。たまたまメンズという感じです。中には「なんで女が大学受験にきてるんだ」なんていう差別的にセリフもあります。それを考えていたとき、未来でも差別されるのかななんて考えていたのですが、そこをもう少し突き詰めて考えればよかったという感じがします。

Q4.キャラクターがイニシアチブをとって物語が展開されていくのか、それとも先生が物語がおもしろくなるように、キャラクターの設定を変えたりとかすることがあるのでしょうか?

A4.最初に考えた物語はあまり変わらないです。物語にうまくあったキャラクターが生まれると、キャラクターも物語もお互いに刺激を与えながら育って展開していきます。時々、話は決まっているのにキャラクターが出てこないということがあって、苦労したこともあります。

はるかな国の花や小鳥Q5.「トーマの心臓」の話をされていたときに「いまならこのようにはしない」とおっしゃっていたのですが、「ポーの一族」の「はるかな国の花や小鳥」でヒロインが受け取る側によってすごく感じ方の違うキャラクターだなと思っていたのです。いろいろな方の意見を聞くと「あの弱さが嫌い。ああいう受け身の女性は嫌い」という人と「愛に殉じる生き方は普通の人にはできないから憧れる」という方もいらっしゃる。萩尾先生はあの作品ではそれを是とも非とも結論を出さずに提示されています。自分も初めて読んだとき、二十歳になってから読んだとき、歳をとってから読んだときと感じ方がどんどん変わってきていますが、萩尾先生がいまエルゼリさんを描くとしたらどのように描かれるか、またエルゼリさんのことをどのように感じられていらっしゃるか、おうかがいしたいです。

はるかな国の花や小鳥A5.いま描いても同じように描くのではないかと思います。
「あの人ははるかな国の住人だったのです」という話ですが、いわば自分の世界に生きている人でしょう?もっと現実に即した生き方しなくていいのか?と思うのですが、私もこんなふうに非現実の世界で生きてみたいという願望があったものですから、夢の世界の中だけで生きているような女の人にしてしまいました。
そこにエドガーが登場して、やがてそこを去るときに、列車の中でエドガーが泣き出すシーンがあります。あれはエルゼリのことをすごくかわいそうに思って泣くのですけど、いわばエドガー自身が架空の存在じゃないかと。架空の世界で生きているエルゼリのことを思ってる。自分でネームをうっていて、いきなりエドガーが泣き出すもので「え、ちょっとちょっとキミなんで?」(笑)。エドガーは泣いた理由をアランには説明しない。アランはなんでかなぁと、そんなふうな感じです。


Q6.「ポーの一族」の「春の夢」の頃、スタジオライフの「エッグスタンド」を上演していたのですが、「春の夢」で第二次大戦中にパリでファルカが女装して踊っていたという話がありましたが、同じ戦時中のパリなので、もしかしたら「エッグスタンド」に出てきたお店なのかな?と妄想してしまったのですが、先生としてはいかがでしょうか?

A6.ファルカさんの女装のイメージは「ラ・カージュ・オ・フォール」という女装の男性・女装の男性で構成された舞台があって、映画にもなっています(「Mr.レディ Mr.マダム」)。それがすごいおもしろいです。ファルカさんはそこで働いているイメージで描きました。

2018.08.02 9:48 | イベント