宝塚歌劇花組公演「ポーの一族」を観劇してまいりました
2018年1月1日から宝塚大劇場で公演が始まっている「ポーの一族」ですが、1月13日11:00の回を観てまいりました。素晴らしい舞台でした。小池修一郎先生が原作の世界観を大切にし、舞台表現の中でわかりやすく展開、演出してくださいました。ご存じの通り、ビジュアルの再現率の高さたるや、ため息が出るほどです。そして演者の皆さんの演技・歌・踊り、スタッフの皆さんの音楽、衣装、舞台装置、照明、すべてがとても高いクオリティでつくりあげられていて、感激しました。
宝塚の舞台は私は初めてです。宝塚というものが、伝統に培われてきたノウハウを生かし、非常に厳しい中を選ばれてきた人材に、肉体・演技・メンタルすべてにおいて徹底的な訓練を積み重ねた、日本で最高峰のエンターテイメントの集合体で、芸をきわめた人たちの集まりであることは知識としては理解していましたが、目の当たりにすることができました。興味がなかったわけではありませんが、たまたま私が若い頃に出会った舞台が宝塚ではなかったということかと思います。若い頃に見たら、はまっていたことでしょう。
「ポーの一族」は孤独にまつわる物語です。でも孤独だからこそ、血縁と血縁でないにかかわらず「愛」で結びつこうとする物語でもある。暗く重く宝塚的な華やかな要素は少ないながら、宝塚の世界観と一致する部分もある。これをどう美しく見せてくれるのか。
原作ファンなので脚本についてをメインで感想を書くことにします。以下ネタばれせずに書くことはできませんでしたので、ご注意ください。
脚本は、短い時間の中で原作に出来るだけ忠実にストーリーを追い、初見の人にもわかりやすく組み立て直されています。その手際の良さは本当に素晴らしい。メインは「ポーの一族」です。それに「メリーベルと銀のばら」の中からエドガーとメリーベルが捨てられ、一族に加えられる経緯が前段階でていねいに描かれています。「ランプトンは語る」のドン・マーシャルとマルグリット・ヘッセンとルイス・バードと新たに作りられたバイク・ブラウン4世が「現代から見てエドガーを追う」という語り手となり、ストーリー全体をわかりやすく進めていきます。そしてさらに物語をわかりやすくかつスピーディに見せるため、細かな改変が加えられています。宝塚なので大人数が登場する華やかな場面をつくる必要があり、メインをブラックプールのホテルに設定、村人の集まる酒場やロンドンの街中の市場など原作にない「場」を設定しています。
「メリーベルと銀のばら」では男爵とシーラの婚約式の夜、エドガーがハンナの正体を知っていつか仲間に加わることを約束し、メリーベルと遠ざけるためにアート家に養女に行かせます。原作ではそこから時間が経過してからビル親父が老ハンナを消滅させるのですが、舞台では婚約式をペッペたちが見てしまい、村の大人たちに訴えます。当然すぐに館を襲撃しようとする村人たちを牧師が止めます。それで時間を稼いだことになっています。子供だから本当にバンパネラかどうか信用できないと慎重になる牧師に対して、事実を確認するためにビルが行く設定になっており、そこで老ハンナを消滅させます。その短い期間にメリーベルを養女に出すのは、ちょっと厳しい感じましたが、やむを得なかったかなと思いました。
村人たちが館を襲いにいく「対決」のシーンで「ポーの一族」「ポーツネル」の両方の言葉が出てきて、ポーツネルは男爵の名前であって一族を総合的に言う時は使わないだろうにとは思いました。どの場だったのか自信がないので次回確認します。ここで結局、大老ポーはどうなったのか、微妙な感じで終わらせているのが、後への伏線となっています。
次に、ロンドンで目覚めたばかりのエドガーがディリーを襲うという場面をディリーの家ではなく市場の中、人目のあるシーンにしています。いやこんな人目のつくところで襲わないだろうと思ったのですがエドガーが目覚めて戸惑うところをスピーディにするためでしょう「こんな街中で!」というポーツネル男爵のセリフが出てきて意図的であることがわかります。その前の馬車での移動にわざわざ「ゆうるりと」の歌を入れじっくり描いた後に市場の華やかなシーンをもってきて、スピードを上げたり落としたりのメリハリが効いていてこちらの集中力を途切れさせません。
「メリーベルと銀のばら」の核となるオズワルドとユーシスとの関係を短いシークエンスにして見せています。短いので台詞だけにして省略してもよかったのに、わざわざ演じて見せたのは、ここが抜けてしまうとメリーベルがエドガーについて行く理由が弱くなってしまうためでしょう。こういう部分を雑にしないところに大事にしてもらえてる感があるんです。ただ、せっかくなのでメリーベルに最後の挨拶をする場面だけは「窓」を生かして欲しかった。しかしこの小さなフラストレーションはアランを連れに行くシーンへの期待につながります。
「ポーの一族」に入ります。ブラックプールのホテルをメインの舞台としたため、ポーツネル一家の住まいをホテルに改変。また、クリフォードの診療所(クリニック)もホテル内に設定されています。これもいいです。これ以降はほかにセント・ウィンザーとトワイライト家が舞台です。海辺の小屋とカスター先生の診療所は重要な場所なので一度しか出てきませんが、きちんと設定されています。学校をさぼってエドガーとアランが行くとりでは学校の校舎の塔に変更し、ここでアランを襲います。
脚本の一番の見どころは降霊術の大会を入れたオリジナル部分。もちろん「ホームズの帽子」のエピソードから発想されているのでしょうが、小池先生のオリジナルです。ヴラヴァツキーという原作にまったくない人物がとても魅力的です。彼女の役割は大老ポーを登場させ不吉な予言をさせることとクリフォードとバイクに銀の銃弾を与えること。それはわかるのですが、わざわざ時間を使った降霊術の会の意味は本当はどこにあるのか。次回考えたいと思いました。特に「海辺の小屋に近づくな」の言葉が丸無視されているので余計に違和感が。ちょっとでもシーラが逡巡してくれたらよかったのですけれど。
先に触れましたが、原作ではちょっとしか登場しないクリフォードの友人バイクの存在を大きくしてジャーナリストに設定、ポーツネル一家の足跡を残す役割を担い、そして現代に4世として子孫に伝えるという改変をしています。バイクについてはこのことにプラス、クリフォードの「非科学的なことを信じない現代的な人間」という側面を強化する役割ももっているように思えます。
エドガーとアランの出会いをホテル内にした演出はよかった。馬を出すことは可能かもしれませんが、手間がかかり過ぎるし時間も取られる。私は大好きな場面ですが、それはマンガ表現として素晴らしいのですけれど、今回の舞台にのせるにはいささか過剰になってしまう。こういうところに手際の良さと思い切りの良さが感じられます。
シーラがジェーンと偶然出会い、一緒に帽子を見る行くシーンが事前にジェーンに近づくことを狙ってウェディングドレスを見に行くことにした変更はわかりやすい改変です。ホテル内のドレスメーカーになっているのも場の移動がスムースです。ただ、ジェーンが具合の悪くなったメリーベルを連れて行く場所がホテル内のクリフォードの診療所になってしまうとメリーベルの最後のシーン、エドガーが間に合ってしまう。ですから今はクリフォードがいないということが強調されていましたが、具合が悪いのにわざわざ距離のあるカスター先生の診療所に連れて行くのは疑問でした。とりあえず具合が悪くなったのなら、クリフォードの診療所にメリーベルを連れていきカスター先生を呼べば良いのに、ちょっと不自然に感じましたが、仕方がないですね。
トワイライト家を飛び出したアランが雨の中をメリーベルのもとにいき、「ぼくがプロポーズしたら怒る?」のシーン、台詞がちがっていました。「婚約して欲しいと言ったら」になっていて、これはその前にクリフォードとジェーンの「婚約式」という言葉がずっと使われていたからだと思います。更に言うならポーツネル男爵とシーラの時も「婚約式」という言葉でした。こういうところで観客にわかりやすくしてくれているのだなと思います。でもアランが走って汗をかいていることにしたのは何故だろう?雨にぬれたのではダメな理由がちょっとわかりませんでした。「雨が海に降っている」シーンは舞台で表現できないわけではないと思いますが、叙情的過ぎて浮くのかな?という気はしました。
クリフォードがメリーベルを殺すシーンの演出ですが、とても重要なシーンなので、クリフォードの鬼気迫る演技やジェーンのおかしくなってしまう演技もよかったのですが、メリーベルの壮絶な叫びにちょっと違和感がありました。メリーベルの悲劇的な最後のせいでエドガーの「ぼくはまにあわなかった」に重みが出るのですが、ああ見えて幼い少女ではなく100歳とか生きているわけですから、もう少し抑制があっても、と感じてしまったのは原作が頭に入っているからでしょうか?
ポーツネル男爵とシーラが消滅するシーンをホテル内にしたのは舞台的な演出上、わかりやすくて良いと思いました。でも原作にあるエピローグへ向かう一連のシーンは本当に素晴らしいです。
アランが叔父を突き飛ばした、マンガ表現として画期的なシーンですが、ここの階段落ちは舞台でももうちょっと激しくやって欲しかったです(危ないでしょうか?)。ラスト、窓からアランを迎えに入ってくるエドガー、このシーンもよかったのですが、もう少し風を吹かせて欲しかったと思いました。そしてゴンドラ。「ポーの一族」のエンディングは孤独なエドガーが人間に絶望したアランを連れて行くのであってハッピーエンドでは決してないのですが、それでも宝塚の舞台で物語の終わりがカタストロフィになってしまうことは観客に対してやってはいけないことなのだろうと思います。エンディングを二人の門出を祝うようにしたこの演出は、私はよかったと思います。
見終わって強く思ったのは「メリーベルと銀のばら」「小鳥の巣」だけでそれぞれ演目として欲しいということです。この舞台が「ベルサイユのばら」のように宝塚でシリーズ化して欲しい。でも上演まで30年かかったように、今回のように奇跡的に合う役者が揃わないと、という面があり難しいかもしれないなと思います。明日海さんだけでなく仙名さん、柚香さんのトライアングルが揃ったことでこの舞台が成り立ったのだとしたら...。
私は原作そのままの舞台が観たいわけではありません。舞台のダイナミズムにのっとった、新たな「ポーの一族」が見たいのです。でも原作の世界観を理解して大切にしてほしい。その一見矛盾するような望みをかなえて下さり、心から感謝しています。舞台表現とマンガの表現は違います。舞台だから出来ること、マンガだから出来ることが違うことを理解すれば、ほとんどの改変は納得のいくものです。舞台だからこそバッサリ切るところや付け加えるところがあって、そこがおもしろい。原作に忠実過ぎて息が詰まるような舞台は疲れますし、結局のところ筋を追うだけの「確認作業」になってしまいます。今回の宝塚の舞台はそんなことはなく舞台を堪能することができました。
原作ファンの皆様、期待にたがわず素晴らしい舞台でした。是非ご覧になってください。すでにチケットを得ている方は楽しみに。チケットが得られていない方は当日券がありますが、宝塚の当日券は朝から並ばなければなりません。寒いのでどうかお気をつけてください。
追記1:グッズはいろいろと売られていますが、萩尾先生の絵が使われているのは、現在のところパンフレットとこのルピシアの紅茶(1/12発売開始)のみです。
追記2:肝心のエドガーの年齢についてですが、かなりぼかしてあります。シーラとエドガーはカップルとは言えないまでも親子にはとても見えません。姉と弟と他人から間違われているシーンをあえてつくってありました。でもシーラは20歳で時を止めていて、エドガーが14歳なので、元々原作でも姉と弟と言われてもおかしくはないのです。
また観て確認できたところは追記します。