2009年12月20日

「萩尾望都原画展」トークショーに行ってきました

「デビュー40周年記念 萩尾望都原画展」のメイン・イベント、萩尾先生とスタジオライフの演出家・倉田淳さんとのトークショーを拝見して来ました。立ち見組です。スペースはとても小さくて、すぐそこに先生がいらっしゃるので、アットホームな感じでした。内容は来年の2月から始まる、スタジオライフ「トーマの心臓」×「訪問者」公演のお話がメインとなっているようでした。

どんなお話をされたのか、先生の方のお話を中心に、記憶をたどってみます。時系列でなくて申し訳ありませんが、一生懸命思い出しています。写真撮影は当然禁止ですので、写真はありません。プレスの方が何人かいらしていたので、どこかで記事になると思います。もし、インターネット上で見つけたら、この記事に追加します。

「トーマの心臓」は1週間7日間のうち6日ネームで悩み、絵は1日で描いた。つまり1日で15枚だから、ほぼ1時間1枚。それは若いからこそ出来たことで、今は下絵だけで2時間かかり、その上に本番の絵を描くので、時間がとてもかかるそうです。

「トーマの心臓」が出来たきっかけのお話。よく知られていることですが、萩尾先生が「悲しみの天使」という映画を見て、下級生の方の子が自殺してしまうという結末があんまりだと思い、残された子もかわいそうで、だから何とかしてあげたくて作った。プロットの大筋(“網走から鹿児島くらいの線”は、とおっしゃいました)は3日間で出来、細かいところはその場その場で作っていった。「トーマの心臓」を作ろうと思ったその日がちょうど雪で(東京の雪だから半日で消えてしまうが、本来ドイツの雪はそんなに簡単には溶けないとも)、だから、トーマの自殺シーンには雪がある、とのことでした。その前に倉田淳さんが「トーマの心臓」を初めて読んだ日が雪だった、というお話をされていて、ちょうどシンクロしていました。

「今思うと、いきなり死んじゃうっていうのは無理がある。不治の病とかもう少し理由をつければよかったと思ってしまう。でももう描いてしまったことだから。」と先生がおっしゃると会場からは笑いが。倉田さんが「いやいや、あれはあれしか」というような感じで返されると、先生ご自身も「若いから出来たこと。チャンスは大切に。」とまとめてらっしゃいました。

それと、倉田淳さんが「トーマの心臓」の初演後にカールスルーエに行ったけれど、萩尾先生ご自身はカールスルーエには行ったことがない、というお話をされていました。意外でした。

萩尾先生の方が倉田淳さんにどんどん質問して切り込んで行くので、どちらかというとスタジオライフのお話が多かったのですが、その中でも萩尾先生が最初に「トーマの心臓」の上演にOKを出されたお話がありました。倉田さんが小学館の『プチフラワー』編集部に企画書を出され、当時の編集長である山本順也氏が実際にスタジオライフを見に行き、倉田さんらとお話した結果、萩尾先生に「あの劇団はしっかりしているよ」と伝えられ、それで先生も上演許可を出されたそうです。でも、最初の返事が「上演OK、どう扱ってもいいです。が、私は見に行けません」というお返事で、実際に最初の上演時(於・ウエストエンドスタジオ 1996年)には見に行かれなかったそうです。

翌年の再演時(於・ベニサンピット)には萩尾先生も観劇され、それ以後、ウエストエンドスタジオのスタジオ内での打ち上げに参加されたり、カラオケに行ったりと、ずっと交流が続いているそうです。

とても穏和な感じの倉田淳さんが、ひとたび演出に入るととても厳しいというお話から、先生も仕事場では相当厳しいのでは?という質問に、「40を過ぎた頃から改心して怒るのをやめるようにしました。怒っても怒らなくても結果は変わらないから」とおっしゃっていました。以前はアシスタントの人が集中力がないからそんなミスをするのだと思っていたのだけど、今は自分の方が逆に注意されるようになってしまった、とのお話でした。以前は相当厳しかったようで、やはり「昔の萩尾先生は怖かった」伝説は本当のようです。

この「怒らなくなった」のお話のときに「一緒に仕事場にいるのだから、怒るとなんだかね…疲れるし」というようなことをおっしゃっていたので思い出しましたが、最初の方で「昔はひとつのちゃぶ台でみんなで仕事をしていて、墨汁のあるところで食事をしたりしていた」というお話も出ていました。

最後に最初に配られた着席30枚分の整理券の通し番号で抽選が行われ、2名の方が先生に花束贈呈されました。

なんだか先生が司会者のような流れでしたが、先生のお話がとても楽しく、あっという間の45分(予定をオーバーして結局1時間)でした。

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