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萩尾望都先生のアメリカ講演の旅レポート(その2)

オレゴン大学構内2017年11月6日、萩尾望都先生はオレゴン大学での講演会に登壇されました。女子美術大学の内山先生とご一緒です。

ワシントン大学と同様、国際コミック・アーツ・フォーラム(ICAF)が主催で、オレゴン大学の「コミック&カートゥーン・スタディーズ・コース」という専攻科との合同事業です。他にもいろいろな科や団体が入ってますね(An Evening with Moto Hagio (Univercity of Oregon)

机の上萩尾先生が渡米されてから一番の晴天。秋の澄み渡る空気の中、16:00から講演は始まりました。机の上には引き続き複製原画が多くおかれています。「ポーの一族」のブランカのシーンの下書きが見えます。

まずは萩尾先生のプロフィール、次にデビュー作「ルルとミミ」を紹介します。

萩尾先生「私が福岡に住んでいた子どもの頃から日本にはマンガがあり、夢中になって読んでいました。とりわけ手塚治虫が大好きで、15歳の時に「新選組」を読み、ドラマチックなストーリーで感動してショックを受けました。一週間頭から離れませんでした。そのショックを誰かに返したくてマンガ家を目指しました。」

●「ルルとミミ」
ルルとミミ萩尾先生「日本でマンガ家になる一つの方法として出版社に投稿する方法があります。大きな出版社が東京にあり、作品を描いて送り、20歳の時に上京しました。いい作品なら載せると言われ、何を描くか決めて二週間で描きました。最後の一週間はほとんど寝ないで描きました。」

●「11人いる!」
予告カラーを見せました。セロテープ跡やメモが書かれているままのものです。

萩尾先生「この話を思いついたのは、中学生の時に読んだ宮沢賢治の「座敷ぼっこ」という童話を読んだときです。東北地方では古くから「座敷童子」の話が伝えられていて、これに基づいて作られた童話です。

北の方の大きな家には家を守る「座敷ぼっこ」というフェアリーが住んでいて普通は人間に見えません。子供が10人で遊んでいると、気付くと1人増えていました。みんな知っている子なのに誰が増えたかわかりません。驚いてみんな逃げてしまいます。その1人増えたのが11人目の座敷童子です。このお話がおもしろかったので、いつか描きたいと思っていました。

18歳の頃に「11人いる!」のストーリーを思いついたのですが、11人の顔が思いつかずそのままになっていました。キャラクターを11人考えるのは大変でした。発表した頃には11人を描けるようになっていました。」

内山先生「マンガで二色は珍しいのでは?」

萩尾先生「三色より二色の方が安かったから編集部が二色にしたのだと思います。二色の場合は黒と赤、黒と紺などの組み合わせになります。二色は基本何色を選んでもよいのです。この作品で赤と黒を選んだのはコントラストがきれいだからです。」

ここで「11人いる!」のストーリーを話しました。タダ、王様、ヌー、フロルを選んで、それぞれのキャラクターを説明しました。

●「イグアナの娘」
イグアナの娘萩尾先生「自分をイグアナだと思った女の子のお話です。なぜこの作品を描こうと思ったか、という話をします。
両親は私がマンガ家になることに大反対しました。マンガ家になって食べていけるようになっても「やめなさい」と言われ続けました。何年も何年も説明しましたがわかってもらえませんでした。
こんなに話が通じないのは私が人間ではないのではないか。牛かもしれない、イグアナかもしれない。これは良いアイデアではないかと思い、この話ができました。」

「イグアナの娘」の絵を見せながら説明します。

内山先生「萩尾先生のお母様にお会いしたことがありますが、厳しい方でした。成功しても認めてもらえなかった苦しみがクリエイティブの原動力になっているのではないですか?」

萩尾先生「両親を見ていて、理屈がどんなに正しくても通じない、不条理がある。それがマンガを描く原動力になっています。」

内山先生「この話には続きがありますよね?」

萩尾先生「はい。両親はマンガを描くことを反対し続けていたのですが、ある時母から電話がありました。「お母さんが「ゲゲゲの女房」を見とったら、水木先生がマンガを描いとったたい。あんたもマンガを描いて仕事しとったたいね。どうも失礼しました。」

ここで「ゲゲゲの女房」の説明を通訳の方が英語でしました。

萩尾先生「母からの電話にビックリしましたけれど、それから母は娘のマンガに反対したことはないと言うようになりました。2年前に母は亡くなりましたが、最後に仕事を理解してくれてよかったです。」

●「ポーの一族」
flowers 2016年7月号内山先生「40年ぶりに「ポーの一族」の新作が発表されて、掲載された『フラワーズ』という雑誌がいつもの2.5倍発売されましたが、即日完売。私も買えませんでした。電子版も1万を超えるダウンロード数で、テレビのニュースにもなりました。」

「ポーの一族」の系図が画面に映し出されます。大きく三つのグループにわけられます。
「ポーの一族」1870~
「メリーベルと銀のばら」1760~
「小鳥の巣」1960~

萩尾先生「19~20歳の頃、デザイン学校でファッションの勉強をしていました。いろいろなドレスの変遷を勉強して、おもしろかったです。昔、流行したロングドレスやマントは、今は着る機会がありませんが私は好きです。

夕焼けの逆光の中、マントを翻して立つ少年が浮かびました。とてもきれいなイメージでした。
この少年が吸血鬼で何百年も生きたらいろいろな衣装が描けると思いました。
それが「ポー」を描いたきっかけです。
主人公エドガーのキャラクターを決め、「ポーの一族」の人々も決めました。旅をする友達をアランにしたのはエドガー・アラン・ポーという作家が好きだったからです。」

主なキャラクター3人の特徴の話になります。

萩尾先生「エドガーは子供のまま吸血鬼になった少年で、周囲にその気持ちを理解してもらえない。唯一の理解者がメリーベルです。メリーベルが死んだ後、エドガーはアランを仲間にします。
エドガーはワンマンな指導者です。テキパキと物事を決めます。
アランはわがままな少年で、エドガーを困らせています。でもエドガーに自分が存在していることを感じさせてくれる、良いパートナーです。」


oregon02.jpgoregon03.jpg
ここで実践です。実際に聴衆の前で絵を描いて、モニターに映し出します。画力対決のようなスタイルです。女子美の講義でもやったことがあります。
エドガーを鉛筆で描かれる萩尾先生。描き終わると一斉に拍手が起きました。

萩尾先生「キャラクターを描くときは、顔のバランスが難しいです。頬の位置、目の位置がズレやすいので、今描きながらハラハラしました。」


oregon04.pngエドガーが登場するシーン
「ポーの一族」について、エドガー登場シーンの画面を見ながら説明します。
萩尾先生「薔薇が吸血鬼の存在を象徴しています。最初はぼんやりとした薔薇です。フォーカスが合い、薔薇がはっきりしていき、全体がクリアになっていきます。」

oregon05.pngエドガーとアランが出会うシーン
萩尾先生「このエドガーとアランが出会う重要なシーンにはほとんどセリフがありません。馬に乗っているのがアラン。驚いているのがエドガーです。アランの目線からのコマですが、一回転して地面に落ちています。」

内山先生「萩尾先生のマンガは心を理解できる描き方になっていますね。」

ポーツネル男爵ご一家ポーツネル一家が登場するシーン
萩尾先生「1870年代のスカートがスリムになった感じが好きです。これは一家がご飯を食べに行くシーンです。ほんとは食べに行かなくてもいいのですが。」


oregon07.png「メリーベルと銀のばら」はエドガーが何故吸血鬼になったのか、というお話です。

萩尾先生「村人が吸血鬼にクイを打つシーンでは上から見た図を描いてます。頭の中のイメージ、ショックと恐怖でいっぱいのを表すため、集中線が四方八方に広がっています。背景を暗くしたのは恐怖を表すためです。気持ちを表すシーンを描くために努力をしてます。」

キングポーエドガーを吸血鬼にする場面
萩尾先生「エドガーがバンパイヤ(この講演では意図的にバンパイヤという言葉を使いました)になるシーンですが、一番年上のバンパイヤである長老(キング・ポー)が、エドガーが大人になるまで待てなくなったので、エドガーを吸血鬼にします。

日本のマンガ右ページを開くのでクルリと回る構図です。目眩が起こるので面白い効果が現れます。エドガー意識が薄れる中で自分が変わっていくのを感じています。」

内山先生「構図として、キャラクターの心理情報を画面にうまく入れるのが萩尾先生が天才と言われる由縁でしょう。」

ここで時間が押したため。さまざまなマンガ絵を見せます。雑誌と単行本加筆の比較もワシントン大学と同じように見せました。

●質疑応答

質問「先生がマンガを描くのは、どこから始まりますか?」

回答「ストーリーから脚本をつくっていきます。絵を落書きをしているうちにアイデアが浮かんできます。

まず、絵のイメージが浮かびます。好きな絵が何度も浮かぶと、これは使えるなと思います。
「ポーの一族」のエドガーやアランのことを考えていた時は3日くらいでストーリーが出来ました。
または、一つのことばかりが気になり、ストーリーがうまく出来ないこともあります。
でも、いつか使えると思って暖めていると、ふとストーリーが浮かんでくることもあります。

原稿を編集部に見せる時は完成した原稿を送ります。途中の打ち合わせはしません。」

質問「これまで何年も素晴らしい作品で人々に影響を与えてこられましたが、一番最初に意味があるものを作ったと感じた作品は何ですか??または一番はじめに気に入ったのはどの作品ですか?」

回答「「ビアンカ」です。私の作品には出来のいいものと悪いものがあります。「ポーの一族」は最初は出来が悪いと思っていました。いつも描いた後はこれでいいのか?と考えています。」

質問「「トーマの心臓」と「ポーの一族」は文学の影響が見えましたが、ありますか?」

回答「私は文学や映画や絵画を愛しています。文学ではヘルマン・ヘッセが大好きでいつかドイツを舞台にしたいと思っていました。それで「トーマの心臓」を描きました。キャラクターの名前はヘッセから随分もらいました。」


質問「日本のマンガ家は一人で作品を作っているイメージでしたが、「漫勉」を見て作家が一緒に作っていることを知りました。萩尾先生はいかがですか?」

回答「たくさんのアシスタントを使っています。アシスタントが入る時は泊まりで仕事をします。30ページを描く場合は絵を描くのに15日かかります。アシスタントは机が3つあるので2~3人がいつもいます。ローテーションで2~3日で人がかわります。
なぜかというと、アシスタントが疲れるからです。」

ちょうど「スターレッド」の画像が映し出されていたので、アシスタントがどの仕事をしたか説明しました。

オレゴン大学構内以上です。萩尾先生、内山先生、スタッフの皆様、お疲れ様でした。
詳細なレポートありがとうございました。

2017.11.10 0:04 | イベント

萩尾望都先生のアメリカ講演の旅レポート(その1)

2017年11月、萩尾望都先生はアメリカのワシントン州とオレゴン州へ講演の旅に行かれました。萩尾先生に帯同されているスタッフの方から講演のレポートと写真を送っていただいたので、お許しをいただき、私の方で現地の皆さんのツイートの翻訳を追加したりしてアップします。



ヘンリー・アートギャラリーヘンリー・アートギャラリー2
11月2日、ICAF(International Comic Arts Forum)のイベントに参加され、ワシントン大学シアトル校で講演をされました。女子美術大学の内山博子先生とともに登壇されています。日本語での講演です。その場で通訳されているようです。

ワシントン大学での講演1会場は大学内のヘンリー・アートギャラリーというところで、お客さんはいっぱいだったようです。

まずはプロフィール紹介から始まりメインの作品の紹介、いままでの作品の数及び出版物について。刊行物合計で2,000万部、作品数は208点、描いたのは18,527ページと発表。すごい。数えるのも大変だったでしょうね。

マンガ家になったきっかけとして手塚治虫の「新選組」を読みショックを受けたこと。そのショックを誰かに返したくてマンガ家になる決心をしたこと。そして、デビュー作「ルルとミミ」が紹介されます。

次に「ポーの一族」のお話。昨年新作が発表され、その新作が掲載された雑誌を増刷したにもかかわらず売り切れてしまい、急遽デジタル版を追加したのですが、それも1万ダウンロードあったことなどのお話が出ました。

ワシントン大学での講演その2「ポーの一族」の系図が表示されて、会場が少しざわめきます。この系図はファンの方がつくったものです。左の写真を大きくするとうっすらと見えます。
萩尾先生「「ポーの一族」を描こうと思ったのはデザインの学校に通っていて服装の勉強をしていたので、いろいろな時代の服を描きたかったからです。まず頭に浮かんだのが長いマントをひるがえして立つ少年の姿で、さまざまな衣装を考え始めたら3日くらいでお話が出来上がりました。自分でも早いと思いました。

まず、エドガー・ポーツネルのキャラクターをつくりました。次にエドガーのパートナーを考えたのですが、エドガー・アラン・ポーの名前からアランと名付けたキャラクターができました。アランが登場するシーンで馬に乗っているのは、この人たちは貴族だから馬くらい乗っているだろうと思ってのことです。

エドガーとアランのキャラクターをつくった後で彼らの家族関係はどうしようかと考えていると、エドガーが現れてこんな家族がいると話してくれたり、メリーベルが登場したりしました。

「ポーの一族」の衣装は「風と共に去りぬ」に触発されてつくったものもあります。「風と共に去りぬ」ではスタイルがどんどん変わっていきますが、1870年代の服が好きだったので、この時代の衣装にしました。「ポーの一族」は1800年代を中心にして、その100年前と100年後のお話です。

「メリーベルと銀のばら」でエドガーがバンパネラにされる場面で気をつけたことは、黒い画面のシーンを多くしたことです。読者を引きつける方法をいつも考えています。最初にイメージが浮かび、そのイメージから頭の中で浮かんだことを表現できるように描いています。

ワシントン大学での講演会のフライヤー「メリーベルと銀のばら」は最初は50ページ×3回=150ページでお話を考えていたのですが、雑誌掲載の都合上、1回につき31ページ、合計93ページにさせられました。お話は何とか詰め込めても、それでは細かな人間の感情は表現できませんでした。ですから、単行本になる時に大幅に加筆しました。雑誌に描いた時に入らなかったネームを保存していたのでできました(ここで、雑誌掲載時と単行本用に加筆した原稿の比較をわかりやすく紹介)。

「小鳥の巣」はヘルマン・ヘッセが好きでドイツに憧れていたから描いたものです。
4色カラーより2色カラーで考える方が楽でした。色を選ぶのは難しいです。」

内山先生「「トーマの心臓」の画面構成において、心情を描くときのコマの切り方が素晴らしいです。横割りの場面が大事なところで使われています。制作上のテクニックがあるので読んでほしいです。」

次に「イグアナの娘」の話になります。萩尾先生は「自分と両親の関係はよくなかったのです。両親は厳しく、勉強が出来る良い子に育てたかったのですが、私はマンガを描きたかった。マンガを描いてる時だけが自由になれました。」

内山先生「マンガに飽きませんか?」
萩尾先生「飽きたりはしませんが、4年に1回くらいアイデアが出なかったりして、もうダメかと思います。悩みながら描いています。苦しんだあと、戻ってきて描いていると幸福な気持ちになります。」
内山先生「ストーリーが膨らむのはどうしてですか?」
萩尾先生「アイデアが育つ時と育たない時があります。アイデアがやってくると自分でもビックリする時があります。」

複製原画絵を描く道具
今回の講演のために、複製原画や実際に使っているペンや道具を持っていかれ、展示されています。この道具の使い方などを説明されました。

質疑応答です。
Q「最後にマンガを描くのが嫌になったのは?」
A「2011年に東北大震災が起こったときです。こんな状態ではマンガは描けないと思いました。しかし、作家は業が深いので原発事故を元にマンガを描きました。描くことを諦めませんでした。」

Q「ボーイズラブの先駆者は萩尾先生ではないでしょうか?」
A「それは竹宮惠子さんだと思います。
私はフランス映画の「寄宿舎」を見ました。「寄宿舎」はボーイズラブの美しくて悲しいお話でしたが、最後に少年が自殺して終わるというところにかわいそうだと腹が立ちました。この少年を生き返らせたくて「トーマの心臓」を描きました。また、「11月のギムナジウム」は掲載誌が少女雑誌だったので女の子の方が良いかと思って女の子でお話をつくったのですが、女の子は不自由だと気付きました。男の子にした方が生き生きとしました。」

質疑応答時の質問者は日本人でした。おそらくシアトル在住のファンの方たち。英語圏の方のツイートでは萩尾先生が日本語で何かおもしろいことをおっしゃると、半分くらいの人が即座に笑うのですが、続いて翻訳の方が翻訳すると、そこで残り半分が笑うという感じだったようです。

講演終了後のサイン会の予定はなかったのですが、会場のファンの皆さんの情熱に押されてサイン会になってしまったそうです。日本人だけでなく、さまざまな国の人がいたそうで、さすがアメリカですね。



シアトル郊外の中学校翌11月3日はシアトル郊外の中学校で講演会が開かれました。珍しく雪が振っていて、紅葉と雪のコラボが素晴らしかったそうです。

シアトル校外の中学校2うって変わって講堂のようなところですね。子どもたちと距離があるようですが表示されている画面が大きいので、大勢いるのでしょうか?「11人いる!」をメインに「イグアナの娘」の話をなさいました。

シアトル校外の中学校3まずは萩尾先生のご紹介。マンガ家になったきっかけ、そのきっかけとなった手塚治虫作品のお話。デビュー作「ルルとミミ」の紹介。「ルルとミミ」はアメリカのお話ですと説明しました。

「11人いる!」のお話。宮沢賢治の「座敷ぼっこ」という民話からお話を考えたこと。

「イグアナの娘」のお話。これは両親との葛藤を描いたものです。萩尾先生が子どもたちに問いかけます。「親はやりたいことを応援してくれますか?」ほぼ全員が応援してくれると手をあげました。先生は思わず拍手したそうです。「両親の反対がマンガを描く力となりました。親が願う娘になりたかったのですが、マンガを描きたい気持ちを優先させました。いつか親はわかってくれると思っていました。」

ほかにもいろいろな作品を映像で紹介しました。

「自分にとって生きている世界は謎が多いので、世界への疑問を掘り下げるとストーリーが浮かびます。」と。

質疑応答では子どもたちがこぞって手をあげてました。萩尾先生の講演会であんなにたくさんの手があがるのは初めて見たそうです。さすが、アメリカの子どもたち。「描く時間はどのくらいですか?「どうやってデビューしたのですか?」などなど。
講演が終わった後も先生に質問していたそうです。「ポケモンを知ってますか?」から「どうやれば絵が上手くなれますか?」.........。モジモジした日本人と違って、積極的でいいですね。


ファンタグラフィック社のサイン会11月4日は「トーマの心臓」「バルバラ異界」の英語版を出版しているファンタグラフィック社のサイン会。

アメリカのコミコン(コミケ)の小さいもののような感じですが、多くの人で賑わっていたようです。ファンタグラフィックスがブースを出すのでサイン会を1時間ほどしてくれないか?と急遽申し込みがあったので快く引き受けた先生。サイン会というようなきちんとしたものではなく、ブースに座ってやってきたお客さんとお話しするという感じだったそうで、まさにコミケ・スタイルですね。自らも出店していたアメリカ人の作家がサインをもらいにきていたり、すでに本を持っているのにサインのためにもう一冊買い求めている人がいたりしたそうです。

icaf2017今回のワシントン大学での講演ですが、ワシントン大学のイベントページに記載されているsponcerのうち、主催はInternational Comic Arts Forum(国際マンガアートフォーラム)で、おそらく後の団体が後援かと思います。Japan Arts Connection Lab(シアトルにある日本文化研究の団体)、 UW Japan Studies Program(ワシントン大学日本研究プログラム)、The Simpson Center for the Humanities(シンプソンセンター。ワシントン大学にある研究所) 、Fantagraphics(「バルバラ異界」「トーマの心臓」英語版を出した出版社)。

現地の方たちのツイートをまとめました。


次はオレゴンです。オレゴンからのレポートはまた。

2017.11.06 15:15 | イベント

女子美術大学特別公開講座「仕事を決める、選ぶ、続ける」レポート

2017年10月2日(16:30~17:50)に開催された萩尾望都先生特別公開講座に行ってきました。今回は女子美術大学1年生向けの公開講座です。ほとんどが若い学生さんでしたが、一部(60名)に一般公募による熱心なオールドファンが参加されていました。その中の一人として紛れ込みました。

「仕事を決める、選ぶ、続ける」というタイトルで、萩尾先生が若い学生さんに向けて、これから仕事を決める、続ける上で大切なことを話されました。とても個人的なことを、かなり深く突き詰めてお話され、私も伺ったことがないお話も出てびっくりしたりしました。「イグアナの娘」のプレゼントのエピソードは実体験だそうですが、あの作品、それだけではありませんでした。それから山岸凉子先生の霊感バリバリのお話もとても興味深かったです。

聞き手は女子美術大学 アート・デザイン表現学科メディア表現領域の内山博子先生。私はいつものようにメモと記憶で書いていますので抜けや思い込みはあるかもしれませんが、大間違いはないと思います。ご容赦ください。


flowers 2016年7月号40年前に描いた「ポーの一族」という作品に最近新しいエピソードを描きました。「春の夢」というのですが、そのときの『flowers』という本の表紙です。そのときの編集の人に「読み切りで描きます」と言ってたのですが、約束というのは往々にして破られるものでして、1回では話が入りませんので、続きを描かせてくださいと言って、今年の春ぐらいからまた残りを描きました。最終的に「ポーの一族 春の夢」という単行本になりました。
みなさん、読んで下さってありがたいと思います。40年ぶりに描くものですから、顔も全然違っていて「何このかつらは?」と言われたり。仕事しながらアシスタントたちが山口百恵の「イミテーションゴールド」という歌があって、去年の彼と今年の彼を比べて「声が違う、年が違う」という歌なのですが、「顔が違う、身長が違う」と歌われていたのです。職場はいつもシビアです(笑)。


〔先生が20代のときの、マンガ家としてちょうど売れ始めた頃の写真。現在探索中です。萩尾先生が自転車を引いてる記事でした〕
この頃は12時~4時くらいまでずっとマンガ描いていました。職業としてマンガ家を選んだ理由は、本当にマンガが好きだったからです。マンガ家になって何が大変だったかというと、編集とのバトルでもないし、アイディアが出ないことでもなく、とにかく親との関係が非常に大変でした。

私の両親は二人とも大正生まれで、マンガなどは全然読まないで育ってきた人たちです。ですから私がマンガを読んで育ってマンガ家になりたいと言い出したときには、頭から大反対です。何故そんなくだらないことをするのか。童話の挿絵画家ならまだ認められるけれど、マンガなんてひらがなを読めるようになったら卒業するものと思っています。それくらい意識のギャップがあるのです。

でも私はどうしてもなりたくて、投稿して、デビューして、マンガ家になりました。原稿料をもらえるようになって、母は少しは認めてくれたのですけれど、どのみちつまらないことをやっている、という意識は変わりません。ずっと「いつやめるの?どうしてまだ描いてるの?どうして親の言うことを聞かないの?」と延々10年も言われ続けました。

「ビアンカ」
ビアンカ扉これはまだ実家の大牟田にいる頃に描き上げた作品です。実家で描き上げて編集部に送っていました。デビューしてから編集さんに描きたいエピソードをプロットにして送るのですけれど、もっと小学生向けのかわいらしい頑張る女の子の話を描いて欲しいと言われ、ボツにされてしまいます。私自身が「頑張る」女の子ではなく、うじうじしている子でした。そういう子を描いたらいけないのかな?と思いながら描いたのが「ビアンカ」です。これはボツにならずにいいよと言ってもらえたのです。ビアンカはおうちに不幸があって、親戚の家に預けられていて、空想ばっかりして森で踊っている、ちょっと変わった女の子です。私にとってはすごく好きな作品です。

●マンガ家になるまで
新選組高校2年生の終わり頃の冬、お年玉で手塚治虫の「新選組」という本を買って読みました。手塚治虫の本は子供の頃からとても好きで、たいていのものは読んでいたのですが、その作品には「ガーン」と頭を打たれるようなショックを受けてしまいました。主人公たちの幕末の世界にのめり込んで、1週間ぐらいそのことで頭がいっぱいになってしまいました。自分はあの作品にこんなにショックを受けたのだから、誰かにこのショックを返したいと思って、マンガ家になろうと決めたのです。

それまでもマンガは描いていて、肉筆同人誌などをやっていました。今はちゃんと印刷した同人誌がたくさん出ていますが、当時は印刷技術などなかなか一般の高校生の手元にはなかったので、みんなで描いた原画を閉じて、グループで配って読んでいました。そういう同人には入っていて、マンガ仲間はいました。いつもマンガを読んで、あの話はおもしろいね、この話はどうなるのかな?という話ばかりしていましたが、親には内緒でした。
マンガ家になりたいと思っても親に知られたら絶対に反対される、投稿して少しずつ実績を得てお金を稼げるようになってから、少しずつ言おうと作戦を考えました。母は私のマンガ友達を嫌っていましたので、友達から送られてくる本を別の友達のところに一度送ってもらって、そこへ受け取りに行ったりしていたほどです。

点子ちゃんとアントン本については、親がいいと言った本はご褒美で買ってもらいましたが、それ以外はこっそり学校や友達の家で読んでいました。あるとき、本屋さんで好きな本を買ってよいとめずらしく母が言いました。私は喜んで書棚から「点子ちゃんとアントン」※というすごくかわいらしい表紙の絵の本を見つけて買いたいと言ったら、即座に却下されてしまいました。替わりにこれを買うようにと言われたのは「ナイチンゲール物語」です。結局「パスツール伝記」にしました。偉人伝を読むようによく言われました。
※エーリヒ・ケストナー著、挿絵はヴァルター・トリーア。

そんなふうに母は大変厳しい人でしたが、私も好きになったものは諦めません。母も頑固ならば私も頑固なので、言うことを聞きません。当時は家でマンガをこっそり描いていました。でも消しゴムのカスが机の上にいっぱいあるので母は気付いてしまいます。「勉強しないで何してんの!」と叱られました。そんな状況でしたので、母に原稿は絶対に見せませんでした。描いたものは鍵のかかる引き出しに入れていました。

ビアンカ「ビアンカ」はデビューして5作目か、6作目位です。原稿料がちょくちょく振り込まれてきました。当時は大体1枚1,500円くらいでしたでしょうか。母もお金が稼げるのなら大目に見ようという感じで、私がアルバイトでもしているような感覚だったのです。


●デビューについて
当時の大牟田にはマンガ家が結構住んでいました。私は大牟田北高校に行っていましたが、少し離れたところに不知火学園という高校があり、そこに平田真貴子さんという方がいらして、高校2年生のとき『少女フレンド』でデビューしていました。そういう人がいるという話を聞きつけて、同人誌の友達と一緒に平田さんに会いに行きました。「お仕事はどうですか?学校に行きながら仕事するの大変ですよね」というような話をしました。「卒業した後はどうするのですか?」と聞いたら「講談社が上京して来いって言ってるから行くわ。」とおっしゃった。それで平田真貴子さんを通して講談社に紹介してもらったのです。

高校を卒業して専門学校の1年生のときにお小遣いを貯めて上京しました。講談社に紹介してもらうと担当さんがついてくれて「私宛に原稿を送ってください」と名刺を渡されました。「すぐ描いて送ります」と言って半月くらいで20枚ほど描いて送りました。せっかくのチャンスですから、ここで頑張らないといつ頑張るんだと思って必死でした。「送ります」と言ってなかなか送ってこなかったら見捨てられてしまうと思ったのです。

1作目は「ルルとミミ」という作品でしたが、1作載ったら順調に載るというわけにはいきませんでした。編集に「こういうのを描きたい」とストーリーを送ったのですが、ダメだと言われて、随分ボツにされました。その中でも「ビアンカ」はOKをもらえたのです。

そのあと、編集さんが「上京してマンガを描きなさい」と言ってくれたので上京して住もうとしたのですが、両親が厳格だったので「東京で一人暮らしなんてとんでもない」と頭ごなしに反対されました。ちょうど上京したときに知り合った竹宮惠子さんが、当時は桜台にお住まいだったのですが、「萩尾さんはいつ上京してくるの?」と。「親が女の子が一人暮らしをするなんてダメだと許さないので、まだちょっとわかりません。」と答えると「じゃあ二人で住みませんか?」と言ってくれたのです。非常にありがたかったです。親にも「ちゃんと女の子と住むから」と言って、上京を許してもらいました。共同生活を2年くらいしました。

●会社をたてた頃
ポーの一族1巻「ポーの一族」を描いたのは共同生活は解散していまして、近場(井草)に住んでいたときです。連載中はあまり好評ではなかったのですが、単行本になりましたらちゃんと売れて本当にホッとしました。「ポーの一族」の後にちょっとブランクがあって「トーマの心臓」を始めたのですが、これを描いた頃は埼玉県の田舎の方に半軒家みたいのを借りて住んでいました。

その頃からだんだん単行本のお金も入って、通帳にお金が貯まり始めました。ちょうど退職した父が通帳の管理をしてあげるから会社にしようと言ってくれました。私もお金の計算をするのは面倒くさいし、お父さんがやってくれるのならと思って頼んだのです。それで望都プロダクションという会社をつくり、父が社長になりました。父は母とともにマンガを描くことに反対していたのですが、こんなふうに協力してくれるなんて、ありがたいと思ったのです。でもそれからが大変でした。

父は毎月上京してきて、家に来ます。家では私は仕事をしていてアシスタントさんたちが来ています。そうすると父の寝る場所がないから旅館に行ってもらうのですが、父はそれが不満なのです。母から怒りの電話がかかってきます。「あなた、お父さんがせっかくあなたの手伝いをするために上京しているのに家に泊めずに、他の人泊めてるんですって?」「いやあの人たちお手伝いしてるから」「その人たちに帰ってもらいなさい」「そうすると仕事できないから」「じゃあその人たちを旅館に泊めればいいじゃない」「それも仕事にならないから」と毎回なだめて旅館に行ってもらいました。苦労しました。

仕事が終わってアシスタントさんたちにお給料を払います。父がそれを横で見ていて、みんなが帰った後「どうしてあの人たちにお金払うの?あの人たちはあなたのお弟子さんでしょう?」まぁお弟子さんと言えばお弟子さんですが。「普通はね、お弟子さんがお金をもってくるんだよ。」と言うのです。「私は絵の塾を開いているわけじゃないから。」と何度言ってもわかりません。定期的にそう聞いてくるのです。「みんなそうしているんから」と言っても、2ヶ月くらいするとまた「何故あの人たちにお金を払うんだ?」と同じことを言うのです。

そういうのが積もり積もって、あるとき大げんかしたのです。とうとう親が怒ってしまって「親をないがしろにして言うことを聞かないのは仕事なんかしてるからだ、やめなさい。」と父と母が言ってくるわけです。もう私も腹が立って、少しは応援してくれると思ったから、社長になってもらったり、好意をもとうと思ったのに、結局最後はやめなさいかと思って、完全に決裂しました。それが1979年頃です。

それまでも両親は、アシスタントさんたちのことであの人をやめさせたいだの、この人はダメだとか、勝手なことを言っていました。また父が勝手にどこかの教室の宣伝など変な仕事をもってくるのです。私はそんなもの描く暇ないからと言うと「じゃあお父さんが描いてあげよう」ということもありました。

そのケンカの後、3年ほど両親とは口をききませんでした。一生口をきかなくてもいいわ、葬式にだって出てやらないと思ってました。でもお中元とか年賀状とか、そういったものはしていました。明太子を送ったら「結構なものをいただきまして、ありがとうございます。こちらもなにやら送りましたから。」と電話がありました。「そちらの方はどうかね?通帳はお父さんが管理してやろう。」「いや結構でございます。」そんな状態が3年続きました。3年で終わったのは私が交通事故に遭ったからです。

●モスクワでの事故
1982年の年末、バレエやオペラを観る冬のモスクワ旅行に参加しました。そこで観光バスが雪道で除雪車と正面衝突してしまったのです。そのままモスクワ郊外のポトキン病院というところに入院しました。頭蓋骨骨折と手首のねんざと、足を7~8針縫いました。でも頭蓋骨骨折の方は帰国してからわかったのです。ポトキン病院でレントゲンを撮ったのですが、現像したものが真っ黒なのです。お医者さんが今日の枚数はもう撮れないから、また今度にしようと言うような状態でした。ポトキン病院はすごく大きな病院で、4階建、5階建てのアパートメントみたいなものがたくさん建っていてそれが全部病棟で、近代化されていたのですが。病院のある一角に日本人の患者が全部収容されていて、そこにエレベーターが3機あるのですが1機しか動いていなくて、それも床にぴったり止まらず少しあがったりさがったりするのです。当時ソビエト連邦だったのですが「ソビエト連邦の崩壊は近いのではないか」と内心思いました。でも入院費は全部タダなのです。社会主義国というのは悪いことばかりではないと思いました。

2週間入院していましたが、頭を打っているので意識が朦朧としていて、1日に2~3時間しか目が覚めずにあとはずっと寝ている状態でした。ご飯を食べて、寝てしまう。あとは日本人の患者に川崎さんという人がいたのですが、この人はバスの運転席の近くに座っていて、足の指とか全部で11カ所も骨折したのでベッドに縛り付けられていて、私の病棟の1階上にいたのです。私はちょっと目が覚めると川崎さんのお見舞いに行って顔を見て帰ってくる。そんな毎日でした。

ですが、2週間がたったとき、いきなりパチッと目が覚めたのです。それで一日中起きられるようになりました。無事に帰国して、もう一回診てもらおうと順天堂病院に行きました。そこでレントゲンを撮ってもらったら、お医者さんに「頭蓋骨骨折をしている」と言われました。骨折と言ってもヒビが入っている状態です。その先生は編集がつてをたどって頼んでくれた世界で五本の指に入る脳の手術の権威のお医者さんだったのですが、「変だなぁ。普通ここを骨折すると脳みそが豆腐みたいにぐちゃぐちゃになるんだよ。」と。丈夫な頭蓋骨でよかったです。

この事故については、不思議なことがありました。私が事故にあったのは12月30日の朝の11:30くらいです。同じ12月30日の11:30くらい、日本時間なので実際はタイムラグがあるのですが、この時間に母が自転車から落ちて頭部を打撲しているのです。頭が痛くて年末正月は寝ていたそうです。私が事故に遭って頭を打ったという話を少し後に聞いて、私が帰国した際に羽田か成田に両親が「無事で良かったね」と迎えに来てくれたのですが、そのときに母が自分が自転車から落ちた話をしました。「あなたはね、お母さんのおかげで助かったのよ。お母さんが頭を打ったから、あなたは軽くて済んだ。」と、言われてみるとそうかもしれないとちょっと思わず思ってしまいました。シンクロニシティのようなものがあるのかもしれません。

この後の親との関係では「マンガのことはちょっととりあえずおいておこう」という感じでした。マンガの話をすると私が怒ることがわかっているので、親もマンガの話は極力しないようになり、やめろとは言わなくなりました。その話は箱に入れて蓋をして、当たり障りのないところでコミュニケーションをとるようになりました。


「イグアナの娘」
イグアナの娘親になんとかマンガを描くことを認めてもらおうと思って、心理学の本をずっと読んでいたのですが、どう言ったら理解してもらえるのか、わかりませんでした。結局、占いの本を読んだら「相性が悪い」と書いてありました。相性が悪いのならどうしようもないなと思いました。そして、親と話しても話しても通じないのは、話している言葉が違うのではないか。もしかしたら私は人間ではないのかもしれない。人間ではないから、いくら話しても通じないのだと思いました。人間ではないのなら、私はいったい何なのだろう?。ふと「イグアナかもしれない」と思い、「イグアナの娘」という話が生まれました。これは自分はイグアナだと思っている女の子の話です。

イグアナの娘2あるお母さんが子どもを産んでみたら、イグアナでした。強いショックを受けます。家に連れていって育てるのですが、その子のことを好きになることができません。お母さんにはイグアナに見えても、まわりの人には人間の赤ちゃんに見えているのです。

イグアナの娘3そのうち妹が生まれます。お母さんはやっとかわいい子が生まれてほっとします。ですが、イグアナに生まれた方の子はお母さんにずっと疎まれて、嫌われて育ちます。

イグアナの娘4大きくなってもお母さんはなにかというと妹と差別して、チクチクといじわるします。イグアナのリカちゃんは仕返ししようとします。ここで妹を殴ってますが、これはやられたことはやり返すという心理学の構図です。

イグアナの娘5お父さんがお母さんに、あまりリカをいじめるなと、かわいいじゃないかというのですが、お母さんの目にはイグアナに見えているので受け入れられません。「あの子はまるでイグアナよ」というお母さんの声を聞いて、リカちゃんは「私はイグアナだからお母さんに愛されないのか」とショックを受けます。

イグアナとして生まれた以上、親に嫌われるのはしょうがない。もし子どもがイグアナでうまれてきたら、多分親はこんなふうに反応するのではないかというお話です。

イグアナの娘6リカちゃんはお母さんの誕生日にプレゼントを買ってきます。それがお母さんは気に入らない。こんなものいらない、と突き返します。これは私が実際に母にやられて、怒られた話です。母が言ったのは「無駄遣いをするな」ということだったのですが、一事が万事そういう感じでした。

イグアナの娘7リカちゃんが「私はイグアナだからかわいくないんでしょう?と」お母さんに言います。お母さんは「あの子はイグアナみたいだ」と言っていますが、本人が「私はイグアナだから嫌われているのだ」と言うのはイヤなのです。周りの人に知られるかもしれない、と思ったからです。「二度とイグアナなんて言葉を使ってはいけません」と強く怒られてしまいます。

イグアナの娘8リカちゃんは、自分は何をしてもダメで、イグアナなのにイグアナと言ってもダメ。しょうがなくて、お母さんに突き返されたプレゼントを川に捨てて、「私はきっと間違って人間の世界に生まれてしまったのだ。誰と間違えたのだろう?本当はお母さんが生むはずだった人間の子と間違えて、こちら生まれてしまったのだ。人間の子はガラパゴス諸島のどこかに生まれて、多分お乳をもらえず、すぐ死んでしまっただろう。だから私のお母さんはきっとガラパゴス諸島にいるに違いない。大きくなったらガラパゴス諸島に私の本当のお母さんを探しに行こう。」と思います。これは夢です。小さい頃お母さんに叱られると、こんなふうに夢を持ちます。これは本当のお母さんではない。もっと美人で素敵なお母さんがいるに違いない。私を迎えに来るんだと。リカちゃんは自分でいつか探しに行こうと思うのです(私が母に返されたプレゼントはお店に返しにいきました)。

イグアナの娘9リカちゃんは成長していきますが、その中で妹と和解します。お母さんがいつもあの子はダメだダメだ出来が悪いと言っているものだから、妹もそう思って「お姉ちゃんは本当に出来が悪い、迷惑だわ」と思っていました。ところが、そのお姉ちゃんはいい大学に進むことになりました。妹が私もそこにすると言ったら、学校の先生から「あなたは成績が悪いから行けない」と言われます。「でもお姉ちゃんが行ってるから。」「お姉さんはいいけど、あなたはね。」と言われて初めて家だけの価値ではなく、客観的な学校や社会の価値でお姉さんは私より頭がいい、と気付きます。

おもしろい話があって、母が私をあんまり怒るものですから、私の妹は長い間私のことを本当に頭の悪い、こういう言葉を使われたのですが「白痴」だと思っていました。私がマンガ家になってこういう作品を描くようになってから、あるとき妹からしみじみと言われたのです。「私、お姉さんはね、ずっとお母さんがダメだダメだと言ってるから、お姉さんは白痴だと思っていたわ。」と。

兄弟が何人かいると怒りの矛先が向きやすい子というのがいるのです。最近「ADHD」と言う注意力散漫な子の障害が知られるようになりましたが、私も学校で決められたものがもっていけない、すぐ忘れる、本を読み出すと他の人の声が聞こえてこないといった欠陥があったものですから、その度に母にものすごく叱られていました。同じことをやっても姉や妹は私ほどは叱られません。姉はおっとりした人で叱られると泣くからは母は叱れない。妹は甘え上手でかわいらしいものですから、母の憤懣は全部私に向かってくる。そういう三姉妹の谷間に落ち込んでいるという状態になりました。
※ADHD=注意欠如多動性障害

わりあい最近のことですが、ある場所の控室に母が遊びにきていました。そこに内山先生もいらしたのですが、母は、娘は自分のものだと思っているので、無断で近づいてくる人が許せないのです。ですから内山先生をきちんとご紹介して打ち合わせをと言ったのですが、「何故私を差し置いて打ち合わせをするんだ」と睨んでいるのです(内山先生、本当に怖かったのです、と繰り返していました)。上京してから下宿先に母が遊びに来たとき、食事を用意したりお風呂に案内したりします。そのとき「どうして親の前であんなに遠慮してるの?」と何度も周りの人に言われました。「そう見えるのか、怒らせないようにしてるだけなんだけど」と思いました。

母はもう亡くなっているのですが、未だにどう対処していいかわからないのです。

イグアナの娘10リカちゃんは優しい人と結婚して赤ちゃんができました。自分はイグアナだからイグアナを生むだろうと思っていたのに、人間の子を生みました。イグアナの私がはたして人間の子を愛せるだろうか。どうしてもかわいいと思えないので、彼女はすごく悲しむのです。お母さんに邪険にされたという記憶があるので、自分に自信がないのです。めいっぱい子どもを愛する自信がない。それでずっと葛藤していましたが、お母さんが亡くなったという知らせが入ります。私のマンガはすぐお母さんを殺すのです(会場笑)。

イグアナの娘11彼女が急いで実家に帰ると、和室にお母さんが寝ています。親戚のおばさんに「死んだお母さんの顔を見てあげなさいと」言われます。リカちゃんが白い布をとってお母さんの顔を見ると、なんと!イグアナだったのです。あんなに「あんたはダメだダメだ、イグアナだ」と言っていたのに、お母さんがイグアナだったわけ?とパニックを起こしてキャーキャー言っています。「お母さんの顔、私にそっくり」と言ったら、おばさんが「うん、似てるわよね。昔からそっくりだって言うんだけど、言うと怒るのよ」と事情を知らないのでしゃらっと言います。

イグアナの娘12この後、リカちゃんはガラパゴスの夢を見ます。一匹のイグアナが王子様に恋をします。イグアナは魔法使いのおばさんのところに行って「人間の王子様のところに行きたいから、私を人間にしてください」とお願いします。「わかった。人間にしてあげよう。その代わり絶対にイグアナだとばれないようにしなさい。そうしないとすべてを失うよ。」と言って送り出すのです。お母さんは人間になって、お父さんと結婚して、もう安心だわと思ったら、イグアナの娘が生まれました。イグアナがいるのはダメだ、自分がイグアナであることがバレてしまう。そうするとすべてを失ってしまう、と恐怖でいっぱいです。娘なんか愛せません。

イグアナの娘13このお話は子どもが親の欠点をもっている場合、親が自分で自分のイヤだと思っているものを子どもに見ると、本当にその子どもがイヤになるという心理学のエピソードに基づいています。子どものここが腹が立つといろいろと言って相談にくるお母さんが、実際にその欠点を全部もっている。自分では欠点を見たくない、もしくは自覚していない、克服できない。なんとか隠しているのに、子どもに見えてしまう。そうすると、隠してくるものがあらわに見えてしまうので、腹が立ちます。イグアナだと隠して生きてきたのに娘がイグアナにうまれてしまったので、お母さんは腹が立ちました。だから私も、母がこんなに私に厳しいのは、母のもっている欠点を私が受け継いでいるからではないかと考えるようになりました。

イグアナの娘14その後、リカちゃんは生まれた子どもがかわいく思えるようになりました。お母さんの気持ちが少しわかった。お母さんが何を怖がっていたか、何を隠そうとしていたか、そういうことがわかったので、理解できた。だからと言ってお母さんを許したわけではありません。でも、それで子どもをかわいがることが出来るようになりました。

●両親について
この「理解する」ということと「許す」ということは微妙に違います。母は亡くなりました。親子の事情を知っている人から「お母さんは亡くなったけれど、お母さんがやったことは全部もういいやと思えるようになった?」と聞かれました。(もういいやと)そう思おうと思ったのですが、時々昔のことを思い出して、床下から畳がバーンと上がるように、ムカーっと怒りがこみ上げてくるんですよ。これはダメだなと思いました。仕方がないので、バーンのままにしておこうと思います。

両親は私が両親が認めない、早くやめろという仕事をしていることが気に入らないのでした。なぜ言うことを聞かないのか。言うことを聞かないということは自分たちをないがしろにしている、バカにしていることだとずっと怒っていました。ところがその母があるとき謝ってきました。何がきっかけかというと、NHKの朝の連続テレビ小説でやっていた「ゲゲゲの女房」というドラマです。このドラマはマンガ家の水木しげるさんの奥さんがマンガ家である夫の仕事を支える苦労話を描いたものです。水木しげるさんはもう亡くなられましたが、「ゲゲゲの鬼太郎」「墓場鬼太郎」といった日本の妖怪がたくさん出てくる、とてもおもしろい妖怪マンガをたくさん描いていらした方です。ドラマでは水木しげるさんが一生懸命仕事をしている姿が出てきます。母があるとき私に電話をかけてきて「あんね、お母さんはゲゲゲの女房ば見とったよ」「NHKの朝の連続ドラマ小説ね。お母さん、NHK好きだもんね」「そしたらね、そこで水木しげるさんが一生懸命仕事しよんなったたい」「あぁ、マンガ家の仕事しよんなったたいね」「あんたも仕事しとったんね」「そうですね」「お母さんはね、知らんかったたい。失礼いたしました。」ええ?今頃?

本当にびっくりしたんですよ。このとき初めて、この人は自分が間違っていると思ったら、すみませんでしたと言える素直な人なんだなと思ったのです。それはとてもありがたかった。私は母に仕事をしているところも、アシスタントさんがいるところも見せています。仕事場で「これ描いたらお相手しますから、待っていてください」と待たせたこともあります。目の前で仕事している姿は見せていたのです。でも母はずーっとくだらないことをしていると思っていました。ですが、NHKの番組で水木しげるさんがせっせと仕事をしているのを見て感心したんですね。「お母さん、水木しげるさんはずっと仕事しよんなった?」「うん。しよんなった」「アシスタントさん、おんなった?」「うん、おんなった」「水木しげるさん、アシスタントさんにお金払ってた?」「払いよんなった」。こんな感じです。やっと仕事を理解してもらえて、本当によかったなと思いました。ですが母は以後周辺の人に「私はね、娘のマンガに反対したことは一度もございません」と言いました。これを聞いて、親にはかなわないと思いました。

不思議なのは父で、父も母と一緒にずっと反対していたのですが、私が送った絵や単行本を全部応接間に飾っているのです。絵などはきちんと額に入れて飾っていて「これは娘の描いた絵です。これは娘の本です」と家に来る人にずっと自慢しているのです。あるときなど、私の最新の作品が収録された雑誌をもって、私の出身高校である大牟田北高校までわざわざ行って校長先生にお会いして「これはうちの娘の描いたマンガです」と見せてきたり。なのに私には「マンガははやくやめなさい」と言う。このギャップが私にはわからないのです。父は母と違い「ゲゲゲの女房」を見てもあまり変わらなかったのですが、母ほどキツくは言わない。だから、やぶ蛇にならないように、マンガの話はしないようにしていました。そのまま父は亡くなりました。

父の一周忌くらいの頃、お母さんはわかってくれたのだけど、お父さんはあんなに単行本を飾ったり人に自慢しておきながら、何故ずっと早くやめなさい、いつまでやっているんだ、と私に言い続けたのか、と考え出したのです。父は音感がすごく敏感な人で、16の頃からバイオリンを習っていて一時はバイオリニストになりたがっていたのですが、両親が亡くなり専門的な授業を続けられずに会社員になりました。会社ではオーケストラでずっとバイオリンを弾いていて、音楽的な素養の高い人でした。父は好きなことをやっていて、音楽を愛していました。だったら私がマンガを愛していることをわかってくれてもいいのではないかと思うのですが、父はクラシック音楽は崇高なものだけど、マンガはくだらないものだと、そこで区別をするのです。最後まで理解してもらえませんでした。お父さんはわかってくれなかったなと思いながら一ヶ月くらい過ごしていました。すると、あるお食事会で山岸凉子先生とお会いしました。皆さんでお話をしている中で、ある人が「恐山に行った人に会った」といい出しました。巫女さんに「亡くなったお父さんはどうなったのか」と聞くと「お前は元気か?わしも元気でやっているよ」とわりと一般的なことを話していたと。あれは亡くなった人が安心するために話を聞くんだよね、などという話をしていました。

すると、隣に座っていた山岸さんが「萩尾さん、あなたのお父さんはね、今、あなたのことがわかったのよ」と突然言うのです。私はその場で父の話など一言もしていないので、びっくりしました。「あなたのお父さんはね、本当はずっとあなたになりたかったの。お父さんはね、あなたみたいに世の中に認められて、作品を発表したりする仕事をしたかったの。だけどそうならなかった。だから言ってみればずっとあなたに嫉妬していたの。でも嫉妬していることをお父さんは気付いていなかったわ。亡くなってから気付いたの。亡くなってからやっとわかったの。」「山岸さん!どうしてそんなことが今わかったのです?」「うーん、今、急に来たの。」とおっしゃる。山岸さんが私にそんなこと言うのは初めてのことです。山岸さんの作品にはそれっぽいお話はありますが、普段そんなオカルトの話など出ないのです。だから本当にびっくりしました。「お父さんは亡くなってから、あなたのことがわかったの」「私の何がわかったというのですか?」「あなたがちゃんと仕事をしていることとか、仕事が好きなこととか、そういうことがわかったのよ」

山岸さんの話を聞いて、父が部屋中に本を飾ったり絵を飾ったりしていながら、私に仕事をやめるように言う理由がなんとなくわかりました。ある意味、私は父の代理です。娘が有名になって作品を発表したりすることを自慢する。一方で、自分がそうなりたかったという嫉妬の部分で「早くやめなさい。お前はいつまでもそんなことをしているのだ。マンガはくだらない」と言う。人間は不思議なものですね。こういった二つの感情を一緒に持っているのですね。

「カタルシス」(小学館文庫「イグアナの娘」に収録されている作品)
カタルシスこのお話では大学受験を控えた少年が何度もプチ家出を繰り返します。知り合いのお兄さんのところやお姉さんのところに行きます。大学受験も迫っているのに、親は心配でしょうがない。彼がそうする理由は、一緒に勉強をしていた女の子が急病で亡くなってしまったのに、お母さんが止めたのでお葬式に行けなかったからです。彼は自分の気持ちのやり場がなくなって足下がふらふらしてしまったのです。ここに出てくるお母さんは息子のことを考えているのですが、あくまでもお母さんの頭の中で息子がこうあって欲しいという考えです。例えば息子に友達が必要だとは思っていません。これはうちの母と同じです。「友達なんかいなくていい。そんな暇があったら勉強しなさい」「お友達と一緒に試験勉強をしてきます」「そんなことをして、お友達があなたよりいい成績をとったらどうするの?」。別にいいじゃない?と思うのですが「そうじゃない」というのです。同世代とコミュニケーションするということは、損とか得とかという以上に精神を安定させ、心の育成を促すたくさんのものがあるのですが、母はそういったことを忘れてしまっているのか、そんなものは本当にいらないと思っているのか。私だけではなく兄弟全員に友達をつくるより勉強しろとずっと言っていました。

弟が中学校に入り、登山部に入ったのですが、久留米大附属といういい中学に入学できたので、母も父も大喜びしたのです。こんないい学校に入学できたのだから登山部なんかに入らないで勉強して欲しいと弟に言っていました。でもやめないので、母が学校に出かけて、担任の先生に「登山部なんてやめさせてください」と言いました。すると先生が「萩尾くんは教室内ではほとんど喋らずお友達がいないのです。ですが登山部には友達がいて喋っているようなので、入れさせておいてあげてください。」と言いました。母はショックを受けて帰ってきて「こんなこと言われてしまった」と私に愚痴をこぼしました。「それは先生が正しい」と私は思いました。そのくらい教育ママで、勉強以外は全部いらないというお母さんのもとで育った、ちょっと反抗しかけている男の子の話です。

●まとめ
私がやりたい仕事を目指していると「あんたにそんな才能があるはずないだろう」「すぐにいられなくなるに決まっている」などいろいろマイナスなことを親はずっと言ってきました。編集からもしょっちゅう「ネームを切りなさい」と言われますし。周囲の言うように自分には才能がないのかな?と思っても、自分の心の中を見るとやっぱりマンガを描きたいという気持ちの方が大きかったのです。自分の心の中にある大きな気持ちの方を大切にして、仕事を続けていたら、母もNHKのテレビドラマを見てわかってくれましたし、父もあの世に行ってからしまったと思ったかもしれません。そうやって親もいつかはわかってくれるのではないかと思います。

●質疑応答
Q.萩尾先生の作品に出てくるお母さんが、今日もおっしゃっていたような萩尾先生ご自身のお母様に似たタイプと、「残酷な神が支配する」に登場するサンドラのようなはかなげで空想の世界にいるようなお母さんと、ふくよかで包容力のあるお母さんと、もしかしたらもっと多いのかもしれませんが3パターン見られると思います。ご自身のお母さんに似たお母さん以外の二つのパターンはどういうところから生み出されているのでしょうか?

A.厳しい母親はたいてい私の母がモデルです。日本の家庭を舞台にした作品をつくろうとすると、母親はというと思い浮かぶとこの厳しいタイプです。そのため、私はなかなか日本を舞台にした作品が描けませんでした。はかない女の人は昔から神話の世界やファンタジックな映画に出てくる、男の人が守ってあげなくてはならないような美人で細い女性のイメージからきているのだと思います。このはかなげなタイプはあまり意思力はなく、そんなに好きではありませんが、結構描いているところを見ると好きなのかもしれません。包容力のあるタイプは私の理想です。お母さんというのは本当は大きくて、子どもが傷ついたときに慰めてくれる包容力のある人ではないかと思ったのです。うちの母の対極にあるような人を時々描いています。

Q.萩尾先生とご両親のお話は何度かお聞きしているのですが、ご両親との関係に苦労された先生が、例えば「訪問者」のオスカーのような、「メッシュ」のミロンのような、人に対して暖かいものを差し出せるキャラクターをどうして描くことができるのでしょうか?ご両親とは対極にあるように思うのですが。

A.両親が厳格な分、見えるものがハッキリしていたので、反発するときはその対極に行ってしまいます。逆に言うと優しい人を描きやすかったのです。両親を見て「こうではない人」というのはどうなんだろうと思って描きました。だからオスカーのお父さんのように自分の子どもではないのに育てるような人を描きやすかったのではないかと思います。ほとんどの私のキャラクターは妄想でできていて、実際にはオスカーのような、いてくれると嬉しい人はなかなかいません。

Q.先生は作品のキャラクターに感情や思いを込めて描くタイプですか?客観的にキャラクターを見て描くタイプですか?

A.ものすごく思い入れを入れて描いてしまいます。ものすごく思い入れを入れて描くので「ハッ」と時々気付いて「ちょっと客観的にならなきゃ」と引いて全体を俯瞰してみて、やっぱりまたのめり込んでしまいます。この繰り返しです。

Q.先生は第一線で仕事を続けていらしたのですが、私は自分が若いときと変わっていくことや仕事を続けることの難しさ、迷うことが増えてきたのですが、萩尾先生にはそういうときはありましたか?またあったとしたら、どういうふうに乗り越えて現在に至っていらっしゃうのか、教えてください。

A.私はだいたい4年に1回くらいスランプみたいものになって「もう描きたくない、逃げよう」と放り出したくなります。若い頃はそれが顕著で、スパンとやめて旅行に行ってしまったり、半年や1年といった長期休みをいただいたりしていました。そういうときは少し前から自分が煮詰まっているのです。こういう言い方は変ですが「この彼氏もそろそろ飽きたわ」というような感じです。

煮詰まっているときにどうしたらいいかというと、他の人が言うには「同じ人と付き合っている中では同じことしか考えない。同じ場所に住んでいては同じことしか考えない。」環境を変えること、新しい人と出会うことが必要です。環境を変えるといっても、そんな頻繁には引っ越しはできないし、急にどこかに行って誰かと出会うわけにはいきません。一番いいのは、手っ取り早く旅行に出ること、なるべくいろいろな人と話すことです。私は美術館に行ったり音楽を聴きに行ったりするのが好きです。美術館も演奏会場も人はたくさんいますよね。絵や音楽のほかにその場の雰囲気を吸収しているのがとても楽しいです。いろいろな人がいるということを知るだけでもいいのです。今回もここに来ましたら、若い方と、いろんな方と(会場笑。生徒さんがほとんどで、一部に一般受講者の長年の萩尾ファンがいる状況で、そのオールドファンたちを指しておっしゃいます)たくさんいらっしゃる。まったく誰も椅子に座っていらっしゃらない中でリハーサルみたいにやったら、かえってくるものがあまりないでしょう。この波動というものがお互いにおもしろいものを生み出しているのではないか、お互いの体温とか息とか、そんな感じがするのです。違う場所に行く、人と会うというのを繰り返しているうちに「ここに新しい道がある」「こんなところに木の実がなっていたのね」と気付くことがあるかもしれない。全然興味がなかったのに今日は急に興味がわいたとか、そういったことがあるかもしれない。マンガ家の仕事はやはり部屋にいてずっと机の前で描いているものですから、ずっと出かけなくてもいいし、人に会わなくてもいい。だけどそれだと本当に煮詰まってしまいます。そんなときにこういう(講演の)お仕事をいただいたのは何か運命だと思って、時間がある限り引き受けるようにしています。〔内山先生に向かって〕情熱とパワーをいただいています。どうもありがとうございました。



ネタバレになってしまいましたが、もし読んだことがない方がいらしたら「イグアナの娘」の小学館文庫版を。家族の問題を取り上げた作品が集まった短編集です。

「萩尾望都―少女マンガ界の偉大なる母」(2010年 河出書房新社)に萩尾先生のご両親、妹さんとお姉さんのインタビューが掲載されています。

2017.10.22 18:05 | イベント

萩尾望都SF原画展 兵庫会場へ行ってきました

神戸ゆかりの美術館2017年9月9日に萩尾望都SF原画展兵庫会場、神戸ゆかりの美術館に行ってまいりました。オープン日は天気もよく、少し汗ばむような日でした。この日はオープニング記念イベントとして同じ建物の5Fにあるオルビスホールで森見登美彦先生との対談が開かれました。→(萩尾望都先生と森見登美彦先生の対談イベントに行ってきました)
関西で萩尾先生の原画展が開かれたのは、私が知る限り「残酷な神が支配する」展が宝塚市の手塚治虫記念館で開かれて以来ではないかと思います。

神戸ゆかりの美術館神戸ゆかりの美術館は六甲ライナーのアイランドセンター駅からすぐ。東京方面から行く方は新神戸駅からですと2回乗り換えないとならないので、新大阪で降りてJR東海道山陽本線の快速か新快速で住吉まで行って乗り換えた方が楽です。京阪神在住の方からみても、神戸中心部からは少しだけ離れた感じのようです。都内で例えるとお台場にあるイメージ。美術館の入っている建物は複合施設になっているので少しわかりにくいのですが、正面からは美術館は右手奥から入ります。神戸ファッション美術館と併設されています。一方、駅からの直接の通路からは3階に出るので、一番奥側のエスカレーターで降りると美術館の入口に着きます。

燃える阿修羅王レッド星

入口に燃える阿修羅とレッド星の写真撮影スペースがあります。新潟で登場したこの大がかりな造形物は神戸にも設置されていました。兵庫会場は原画の追加は新潟からはありませんが、東京からは相当増えています。初期短編から少女マンガ界初の本格SF「11人いる!」、長編「スターレッド」、少年チャンピオンに連載された「百億の昼と千億の夜」、S-Fマガジンに掲載された「銀の三角」、「マージナル」といった萩尾先生の代表的なSFを中心に、初期から最近まで萩尾作品の原画が見られる上、早川書房ほかたくさんの本のイラストに使われた原画が展示されています。

新潟との違いはまず、タペストリーが4点ほど増えて更に華やかになりました。入口にレッド星が手前と奥に並んでいるので遠近感があって、見栄えがいいですね。大きな会場で天井が高いので、大型のタペストリーが更に映えます。

新潟ではあった「百億の昼と千億の夜」のネームのボードが二つから一つになっていましたが、ネームのすぐ近くの椅子に同じページの本のコピーがラミネートされておいてあり「お手にとってお読み下さい」と記載されていて、ネームと見比べることが出来ます。

二次資料は新潟会場とほぼ同じでした。萩尾先生のカバーイラストの本、掲載誌、CD、LPなどがガラスケース三つに分かれて展示されていました。「11人いる!」のプロットと「百億の昼と千億の夜」の大量のネームは小さなケースにおさめられています。

吉祥寺は前後期とあったので、狭い会場をいかに有効に使うのか、作品の単位ではまとまっていますが、その中で原画の配置もよく考えられ工夫がされていたと思います。新潟ではスペースは広くなりましたが、更に凝った配列になっていました。兵庫会場ではそこが素直な感じになったように思います。作品内での章立てに沿った形で並べられていました。

萩尾望都SF原画展は3ヶ所目ですが、大型絵画も展示できる美術館は初めてです。油絵等の絵画作品と同じような照明なので、これまでの2会場より会場内が少し暗いように感じました。マンガの原画は線が細いので、もう少し明るい方が助かります。

尚、この会場では展示されている原画のリストが配布されています。入口においてあります。これのおかげで今回は3時間で済みました。ありがたかったです。この原画展は実質的に図録が「萩尾望都SFアートワークス」なのですが、どんどん原画が増えてしまって、こちらに全部収められているわけではないので、気になる方は手にとってご覧ください。→萩尾望都SF原画展 兵庫会場 展示物一覧

また、この会場から販売物が増えました。Tシャツが2点、クリアファイル2種セット1点、ポスター2点、ポストカードセット1点です。これまでのものと合わせると、Tシャツが4点、トートバッグ1点、ポスター2点、クリアファイル2種セット4点、ポストカードセット2点、複製原画3点となります。→萩尾望都SF原画展 販売物一覧

同じ建物内にホテルがあり、そこに併設されたレストランがありますし、アイランドセンター駅までの間に喫茶店などもありますので、少し疲れたら休んでまた見ることもできます。再入場の際には入場日の判が押された入場券の半券を受付でお見せください。

兵庫会場の会期は9月9日から11月5日まで。充分ありますが、気づくと終わってる、ということのないよう、お気をつけ下さい。

萩尾望都SF原画展 兵庫会場 展示物一覧
萩尾望都SF原画展 販売物一覧
萩尾望都SF原画展公式サイト公式twitter @hagiomoto_SF公式Facebookページ

2017.09.18 23:52 | イベント

萩尾望都先生と森見登美彦先生の対談イベントに行ってきました

萩尾望都×森見登美彦対談イベント2017年9月9日(土)14:00から萩尾望都先生と森見登美彦先生の対談が神戸ゆかりの美術館の上のオルビスホールで開かれました。13:15の開場時には長蛇の列になっていました。宇宙船のような曲線を描くオルビスホールですが、入口には熱い空気がたまっていました。ファンの熱気のせいもあったでしょう。今回の対談は追って会場内に設置されたテレビで編集されたものが流されるそうなので、主に萩尾望都先生の発言をピックアップしてレポートします。メモと記憶で再構成していますので間違いがあるかもしれません。

このお二人の対談は初めてではありませんが、こういう場所ではないと思います。森見先生もおっとりタイプで、萩尾先生の対談としてはとても珍しく、萩尾先生が引っ張っていく形です。いつもは対談のお相手の方がお話をされる量が多いのですが、今回は萩尾先生の方がお話をされていました。でも萩尾先生が時折森見先生に丸投げしていて、ひどいなーと思いましたが(笑)会場は爆笑でした。お二人ともおっとりした感じで上品な対談でした。

司会進行は甲南大学准教授の増田のぞみ先生。お若いけれど関西の少女マンガ研究を牽引する論客のお一人として知られた方です。図版を提示しながら、お話を進めるという、たいへんなお仕事を難なくこなされていらっしゃってました。

(まずは「萩尾望都SF原画展」が開かれた経緯を萩尾先生から。)
「萩尾望都SFアートワークス」の出版からこの原画展を開くことになりました。河出書房の編集者がこのイラスト集の企画をもってきて、最初は早川書房に描いた表紙カバーのイラストなど、あまり知られていないイラストを集めようという話だったのが、どんどん話が大きくなっていって、たくさんのイラストを収録することになってしまいました。私はずっと小学館で仕事をしているので、小学館の編集者からなぜこれをうちで出さずに河出が出すんだと怒られたので、謝りました。...河出の編集者が(会場笑)。

この原画展はまず昨年吉祥寺で開かれました。新潟では全部黒いパネルを貼って、そこに原画を展示していたそうです。自分は吉祥寺も新潟も見に行ってないので、昨日の内覧会で初めて見ました。いろいろなものがぶらさがっていたりしてほえーっとなっていました(※注:タペストリーなどのことだと思います)。この頃はデッサンがちゃんとしていたなーなんて思いながら見てました(会場笑)。吉祥寺の会場に比べると新潟は広いので、原画の点数を増やすと言われ、ひえー聞いてないよと思ったり。コピー(複製原画)を追加したりしました。


スター・レッド(「お気に入りのイラストは?」と聞かれて、スター・レッドのレッド星のイラストが表示されました。)

「スター・レッド」は急に企画が決まった作品です。3日後に予告カット入れて、そのあとすぐに表紙を描いてと言われて、そんな無茶なという仕事だったのですが、お世話になっている編集者だったので(注:山本順也氏です)引き受けました。本当に見切り発車で始めたのはこの作品だけです。火星人の女の子のことを考えて、赤い目、白い髪かなと思って描きました。ちょうどその頃SF大会があって、光瀬龍先生にお会いしたので「今度、火星の話を描くんです」と言ったら「火星人はみんな赤い目、白い髪になるんだよね。」と言われて、「え?なぜ知ってるの?まさか見られちゃったの?」とびっくりしました(笑)。

1回目のネームをつくった段階でその先は何も決まっていませんでした。でも不思議と重要なキャラクターは1回目にほとんど登場しています。エルグを描いたとき、そんなに重要なキャラクターになるとは思っていなかったのですが、描いているうちにセイに「火星に連れて行ってあげようか?」と言い出したので、じゃあ彼はどこから来たんだろうと考え始めて、そこからキャラクター設定が決まって重要なキャラクターになりました。

バルバラ異界
(気に入ったキャラクターの話の続き。「バルバラ異界」の青葉とキリヤの絵が登場しました。)
もう一つ産みの苦しみを味わった作品として「バルバラ異界」があります。最初は4回くらいの連載で終わる小ぶりの作品のつもりでした。1回目のネームを描いた途端に「何か違う」と思ったんです。でも何が違うのかわからない。このまま描き続けていくと、必ず行き詰まると思いました。1回目の絵を描きながら、次のネームをつくらなくてはとスケッチブックにいたずら描きをしていると、キリヤが出て来ました。この子が「自分は渡会の息子だ」と主張して譲らないので、2回目からのお話を、それまで考えていたものと全然違うものにして描き始めました。

(「11人いる!」のプロットの話)
この人は今、何パーセントくらい焦っているんだろうと考えながらプロットに書き込んで行きます。すると、その感情の動きに合わせて、表情を描くことができます。30パーセントだから汗は二つ、とか。

(森見先生からSF原画展の感想を)
「西風のことば」が気になりました。いま僕は奈良に住んでいるので、古代のような未来のような絵ですね。

(萩尾先生がそれに対して)
「西風のことば」は丹後に行って帰ってきてから描いたものです。丹後では遺跡が発掘されていました。

(今回の原画展に文庫のカバーが多い話)
カバーは印刷がきれいなので、結構細かく描いても見える。それならどんなふうに描いても良いのではないかと思って描きました。

(森見先生との出会いの話)
(森見先生)
新潮社のはなれのような日本家屋で対談したのが初対面です。「四畳半王国見聞録」の刊行記念で編集者と僕とで相談して萩尾先生に対談をお願いしました。

(萩尾先生)
対談などは呼ばれたら時間が許す限り行くのですが、行ったらすごいイケメンが座ってて、あらどうしましょうと思いました(会場笑)。

森見作品では「ペンギン・ハイウェイ」が好きです(※あとがきを書かれてます)。言葉のリズムに音楽的なものを感じます。この言葉のリズムってなんだろう?ワルツかな?と19世紀のウィーンが浮かんできました。ヨハン・シュトラウスとか、品の良いイメージの音楽が聞こえてきますと。

(森見先生のお返事)
自分はよく大正から昭和初期の作家の作品を読むので、彼らのリズムに影響されているのかもしれません。

(森見先生。萩尾作品との出会いについて)
自分が高校生のとき、お母さんが入院しました。このとき、叔母さんがお母さんに差し入れした本が「11人いる!」だったんです。これを横から自分が取っていって読んだのが最初です。大学生になり、「トーマの心臓」や「ポーの一族」を読みました。四畳半の部屋で読んだ「トーマの心臓」が自分の中ではすごく印象に残ってます。

(萩尾先生のSFとの出会いのお話)
小学生のとき、学級文庫や学校の図書館でギリシャ神話などを読んでいました。その後、少年少女SF全集が出てきます(※1956年頃から少年少女向けのSF小説全集が各種出始めます)。それを読んで現実とファンタジーの間をいったりきたりする感覚にひたっていました。

(ここから萩尾先生のSF談義が始まります。全部萩尾先生がコメントを述べられているのですが、書名をメモするので精一杯でした)

アン・レッキー「叛逆航路」
オーソンスコット・カード「道を視る少年」
ジョー・ホールドマン「終わりなき戦い」
チャイナ・ミエヴィル「言語都市」「都市と都市」
フレドリック・ブラウン「火星人ゴーホーム」
レイ・ブラッドベリ「華氏451度」
小松左京「日本沈没」...この本が出た頃、目を悪くしてしまって、マネージャーの城さんに朗読をしてもらいました。でも城さんは私が寝ている間に自分は一人で読み終わってしまって、次の日、続きを読んでと頼んでも、もう読んじゃったからと読んでくれません。「それで、日本はどうなったの?」と聞くと「沈没しちゃったよ?」と。ひどいでしょう?(会場笑)。

筒井康隆「霊長類、南へ」
A・E・ヴァンヴォークト「宇宙船ビーグル号の冒険」
アーサー・C・クラーク「幼年期の終わり」
ハインライン「異星の客」
エドガー・ライス・バローズ「火星のプリンセス」「火星の大元帥カーター」
アーシュラ・K・ル・グウィン「闇の左手」...この作品では男女が周期的に入れ替わります。これが「11人いる!」のヒントになりました。

(森見登美彦先生のオススメSF)
藤子・F・不二雄「ドラえもん」
フィリップ・K・ディック「高い塔の男」
スタニスワフ・レム「ソラリス」...「ソラリス」と「ペンギン・ハイウェイ」の関係についてお話をされてました。


(「ピアリス」の話。「ピアリス」を書くことになった経緯、中断してしまった経緯、そして今回出版することになった経緯をお話をになりました。「ピアリス」の最後のインタビューをご覧ください。)
木下司というペンネームを使っていたのは、たぶん文章を書くのが恥ずかしかったんでしょう。
(これに対して森見先生)
文章を読めば萩尾さんだなってわかります。もしくはものすごい萩尾マニアが書いた作品だと思ったんじゃないかと。萩尾さんの他の漫画といろいろつながっていますよね。

(「美しの神の伝え」の話)
描きたい話がたくさんあるのに、絵を描くのが遅いので、おいつかないんです。SFの短編小説として書かせてもらったものを集めたものがこの本です。文章を書くのは頭の中に浮かんだイメージを文章に落とし込むので必死です。
「マージナル」はいい男祭り、「美しの神の伝え」は美少年祭り。いい男を描くのは楽しいです。何を着せよう?どこで脱がそうかと考えて楽しんでいます。

(森見先生の「美しの神の伝え」に対する感想)
昔、ファンタジーノベル大賞を受賞した北野勇作さんや佐藤茂さんの作品を思い起こします。マンガだからこそ出来る表現、文字だからこそ出来る表現があります。萩尾望都先生のはイメージを文字にしているけれど、僕はビジュアルと言葉が混じり合った文章を書いていると思う。言葉の要素が強いです。

(これに対して萩尾先生が)
小説家の文章を読んでいると、言葉の力がすごく入ってくることがある。それはすごい力となることがあります。

(SFだからこそ書けるものは何か?との質問に萩尾先生)
SFは物語を自由に書けるので解放されます。私たちが生きているこの世界の他にも世界のがあるということに救いがあります。宇宙だけでなくお化けなんかも含めてです。ここだけでないどこかがある。そういうものがあることで、気持ちが楽になります。

(今にここにある現実を描くこと、ここではないどこかの世界を描くことはどうバランスをとっておられるのでしょうか?という質問。すごく悩んで萩尾望都先生は森見先生に最初丸投げしていました。森見さんどうですか?と)
僕の作品ではどのくらい我々の世界(今にここにある現実の世界)のルールを入れるかどうかは、作品ごとに決まります。

(萩尾先生は森見先生に答えさせている間、じっと考えていておもむろに)
SFでは時折超能力者が出てきますが、超能力者が何でもできることになると、おもしろくなくなります。何でもできないようにしなければと考えます。ファンタジーの世界は何でもできるけれど、何でもできないようにしないとつまらないです。

(舞台やドラマ、映画など別のメディアのお話)
「ポーの一族」がこの近くの宝塚で舞台になります。演出の小池修一郎さんとはずっと前からの知り合いで、会った最初のときから「ポーの一族」をやりたいと言われていて、「どうぞどうぞ、お任せします」と言ってあります。ですが、いろいろと難しいようで、なかなかうまくいきませんでした。もう小池さんが生きている間は無理かしら?と思っていたら、話が進んだんです。でも、昨年「ポーの一族」の続編を描いて発表しました。今回宝塚の舞台ができることになったのは「ポーの一族」の続編に便乗したわけではないと皆さんに言ってくださいね、と小池さんに言われています。

(スタジオライフなど、舞台化された作品がありますが、ご自分の作品が舞台になることについて、どう思われますか?)
生身の役者さんがやるのを、一観客としておもしろがっています。マンガの世界が動いている、紙の上で描いたものが立体になっていることに驚いています。マンガを描くとき、地面にいるときは舞台を思い描いていると作りやすいです。俯瞰の目で描くときは、映画的なイメージが出てきます。

(作品が舞台や映画、テレビなどになるとき、注文などされますか?)
一度OKしたら、何も言わないことにしています。お申し出をお断りすることもありますが、断っても断っても何度も何度もアプローチされて、面倒くさくなってOKしたら、思いの外うまくいった作品が「イグアナの娘」です。
それから、企画はあがっても、ものになる前にポシャることはよくあります。

(最近の活動について)
『月刊YOU』に「王妃マルゴ」を描いています。アシスタントさんたちに「いつ結婚するの?いつ大人になるの?と」言われてましたが、ようやく結婚して大人になりました。
来年は「ポーの一族」の続きを描きたいです(拍手が起きる)。
あと、森見さんと恩田陸さんと3人で日本ファンタジーノベル大賞の選考委員をやっていて、選考会が来月あります。

(質疑応答。最近のSFと古典的なSFの違いについて。萩尾先生はまたここでも答えにつまって最初は森見先生に丸投げします 笑)。
僕たちの世代は上の世代のおかげで「ドラえもん」のような作品たちにSFはすでに取り込まれていて、自然と触れることができていた。でも最近のSFは専門家が入ってきて、非常に高度なものになっているように思えます。

(萩尾先生がお答えになります)
最近のSFのテーマは戦争とコミュニケーションのことが多くて、敵をやっつけて終わりというものではなく、話の通じない相手とどのようにコミュニケーションをとるか、ということをテーマにしています。ハイラインの初期の作品などにはコンタクト系も多いのですが、かつて手塚治虫先生が敵の方の背景をていねいに描いたことが大事だったのだなとわかります。

(ここで終わりだったと思います。)

2017.09.10 18:16 | イベント

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